『BEASTARS』がすごい(ネタばれなし・感想)

 ある表現を境に、急にその作品を薄く感じてしまった経験はないだろうか。それは、「そんなに簡単に行くかなあ」「ご都合主義っぽいな」という不信感を持ってしまったり、「ちょっとそれは違うのでは?」と個人的な疑問符を浮かべてしまう時だ。その疑問符は人により種類が違うけれど、私にとっては、「堕落した王が国を傾けていく」描写がそれにあたる。

 

 理由を平たく言えば、それがステレオタイプだからだ。「亡国の王子」とか「革命」の背景にある国を傾けた根源は、酒や女に耽溺し、国政を疎かにする君主が圧倒的に多い。或いは、権力を振りかざして好き勝手やり、諫言する臣下を斬首にする暴君でも良い。領土欲に燃え、他国を簡単に焦土にしてしまう為政者かもしれない。要は自分の個人的な欲望に走り、明白な倫理を踏み躙って、他人に害を加える人間である。

 別にそこには、完全な嘘はない。歴史の中でも、そうした君主のせいで滅亡した国もたくさんある。だけど私は、この描写が出てくると、強い引っ掛かりを覚えてしまうのだ。「社会の秩序が乱れるのって、そんなに簡単な理由なのだろうか」と、首を傾げたくなってしまう。一様に嫌いなわけではなくて、彼らなりの理屈や、そこに至る過程が丁寧に描かれていればむしろ面白い。だが、どうしても「権力をかさに好き勝手やっている王がいました、国が傾きました、はいそこでは……」とトントン拍子に進められる物語については、他人に薦めたい気持ちにはならない。

 

「力ある者が、恣にその力をふるい、人々が苦しめられていく。」……確かにそこには、分かりやすい「悪」がある。でも、それは3歳児も飲み込める当たり前の「悪」だ。完全なる悪人が「力」を振りかざして生まれる悲劇は、あまりにも見え透いている。かのユリウス・カエサルも、「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」という言葉を残している。その通り、権力者の思惑というのは、創作者が思うほど単純ではないと思う。人々が苦しむのは何も、年貢の重さや、身分による差別だけではない。昔よりも物理的には満ち足りた現代ならばなおさらだ。

 今も昔も、人々の苦悩は、政治で解決できるものと、出来ないものがある。例えば、誰にも雇用の機会を開くことは政策で実行できても、その職場での差別や偏見をなくすことは、政治の力だけでは難しい。

 では、たった一人の身勝手な権力者がいないならば、その歪みは果たして何処から来るのか。

 それは、社会をよりよくしようとする多くの人間が足掻いた末に、その手足が複雑にもつれあい、生まれてしまうものなのではないか。

 少なくとも私には、そんな風に思えてならない。

 だからこそ、『BEASTARS』という漫画に、深く感動したのである。

 

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世界観

 この作品の舞台は、肉食獣と草食獣が共生する社会である。「肉食獣と草食獣が同じ社会に住む」という設定から、「力が強い肉食動物が力の弱い草食動物を支配する」ような世界を想像するかもしれないが、この物語はそんな一筋縄ではいかない。共生は上手くいっているのだ。肉食獣たちは草食獣たちを怯えさせないよう、自らの凶暴性を押し隠す努力をしているし、草食と肉食が仲良くしている姿は肯定的に見られる。「ビーストブック」というSNSでは、肉食獣と草食獣が仲良くしている写真に多くのいいねが付くし、異種族婚は「時代の先駆け」とも言われる。「肉食獣が強いままでいられる時代は終わったんだ」と、作中でライオンも言っている。

 そうして、一見すると彼らは平穏な毎日を過ごしている。だが草食獣たちは、心の何処かで肉食獣を恐れているし、肉食獣もまた、草食獣に怯えられるストレスや肉食の本能と戦っている。肉食獣たちが暴走しないよう社会にはガス抜き措置が用意されており、どういう形にせよ、平和は保たれる努力がされている。

 しかし、共存の姿勢は時には歪でもある。例えばこの街の市長のライオンは、草食獣に親しみやすさをアピールするために、400万を掛けて整形手術を施し、牙を全部入れ替えている。そしてその市長の整形は市民たちに肯定的に受け入れられているのだ。この作品が見せるこうした歪さはあまりにも真に迫っており、ぞっとしてしまう。他にもクマのアイテムなど、数え上げればキリがないが、本当に細部まで手が込んでいて惹きつけられるのだ。

 そうして平和を享受する草食獣と肉食獣だが、ちょっとした衝突の時に、押し隠していた不満を漏らしたりする。生まれた時から付与された本能が、互いへの偏見が、意図せずに相手を傷つけたり、故意に相手を遠ざけようとしてしまう。

 しかし彼らも、互いを疎むだけではない。肉食獣の強さと美しさを誇りにする肉食獣もいるし、それをうらやむ草食獣もいる。一方で、草食獣のか弱さと可愛らしさを強みにする草食獣もいるし、焦がれる肉食獣もいる。自らと他者を取り巻く感情は非常に複雑なのだ。相手のことを知っていくうちに、自らと向き合わされ、時にはその形さえ揺さぶられながら、彼らは少しずつ互いに歩み寄っていく。

 

 『BEASTARS』は、そんな模索を繰り返す獣たちの、葛藤の物語なのである。

 

キャラクター

 この物語の主人公は、レゴシというハイイロオオカミだ。レゴシは図体も大きく、肉食動物の中でもひときわ強い力を持つが、根暗で優しい性格をしている。そんな彼はある時、衝動的に、ハルというウサギの少女を捕食しようとしてしまう。この世界では肉食は絶対の禁忌だ。罪悪感を抱きながらも、レゴシはハルに恋をする。そして、捕食の欲と、逃走の本能とに邪魔されながら、彼らは自らの気持ちの答えを見つけようとするのだ。

 演劇部部長・アカシカのルイもまた、この物語のもう一人の主人公といっても過言ではないだろう。草食動物でありながら、強く孤高の存在であろうとするシカのルイと、自らの凶暴性を抑え、目立たないようにあろうとするオオカミのレゴシは対照的だ。当人たちは自らの意思を全うしようともがくのだが、その意思とは無関係に、オオカミの肉体は頑健で強く、アカシカの手足は折れそうに細い。その身体的に付与された個性に抗いながら、彼らは自らの立場を肯定して、強い絆を結んでいく。

 そしてヒロインのウサギのハルは、ルイとは別のやり方で、草食獣の立場を強かに生きようとしている。このハルはヒロインにしては珍しいタイプで、女子からはあまり好かれないが、芯をちゃんと持っていて強い。それに物語が進むごとに、魅力が増していくキャラクターでもある。

 この物語のキャラクターに共通することだが、脇役でもチョイ役でも、ちゃんと、吸い込まれるような深さを持っている。短い描写であっても、その獣が生きてきた分の重みが伝わって、胸に迫るのだ。

 

 もしこの作品が、「肉食獣に虐げられる草食獣たち。いつか、肉食獣の座に取って代わるぞ……! 俺たちは弱いけど、皆で力を合わせて立ち上がるんだ!」という物語だったら、私は途中で読むのをやめていたかもしれない。だがこの物語では、既に「両者が共生している」という前提があり、「互いを受け容れなければならない」という社会通念があり、それでも、消せない偏見や乗り越えられない壁に、獣たちはもがかなければならない。

 こんなに苦しくて、息が出来なくなりそうな葛藤の中で、強く優しくあろうとする。そんな獣たちの生きざまには、涙を流さずにはいられない。

 

「優れた書き手」

 優れたアイディアの数よりも、優れた書き手の数の方が少ないと、私は考えている。

 

 『デスノート』を例に挙げよう。「名前を書き込まれた人間が死ぬノート」――そのアイディアだけでも充分魅力的だが、もしあの大場さん以外の人間がこのアイディアを授かっていたと仮定しよう。一番ありそうなのは、「嫌いな人を殺した主人公は自己嫌悪に陥り、その葛藤を描く」という作品に仕上がることだ。或いは、「好きなだけ人を殺して性格が歪んでいく主人公」だろうか。今の『デスノート』の骨子ではあるが、充分ではない。

 『デスノート』がヒットしたのは、「犯罪者を裁く」という正義感を振りかざし、未知の手段で殺人を起こす側と、それを検挙する側との心理戦を中心に持ってきて、見事なストーリーに仕上げたからだ。それに加えて、主人公が月であるのも大きな理由だ。少年漫画の視点からも、エルを主人公にして勝利させるのがセオリーだろうし、ミステリーの視点からも、犯人は隠しておいて探偵に推理させるのがオーソドックスだ。「デスノート」の存在をミステリーの規則違反にしたくないならば、コナンのように犯人役を黒ずくめにでもして、反則にならない程度の情報を開示するなど、やり方はあった。だがそれでは、月の天才的な頭脳のキレと、その性格が歪んでいく過程は追えなかっただろう。今の形が「デスノート」というアイディアに最もフィットしていたのだ。たとえ誰かが「名前を書き込まれた人間が死ぬノート」のアイディアを授かっていたとしても、あの大場めぐみさんと小畑ケンイチさんのペアしか、あれだけ面白いものにすることは出来なかったと思う。

 

 『BEASTARS』の核となる「肉食獣が草食獣と恋をする」というアイディアも、「肉食獣と草食獣が一緒に暮らしている」という舞台設定も、素晴らしいものだと思う。だが、まだこれだけで稀有とは言えない。無根拠に正義を振りかざすことなく、自分や社会の目を背けたい部分も見据えて、挫折にも立ち上がる過程を、残酷なまでに的確に、かつ力強く描き出したからこそ、この作品は魅力的なのだ。たとえ誰かが同じアイディアを授かったとして、同じことが成し遂げられたとは思わない。

 

 端的に言うと、私は、この作品にすっかり魅了されてしまったのだ。初めてこの作品に出会った時、私は、息をするのも忘れて、この作品を読み耽った。ページをめくっては戻り、台詞や絵を何度も噛み締めてから、溢れてくる涙を拭い、大切に大切に読んだ。

 私がこれから、何度も、この作品を読み返すだろう。だが、初めて読めるのはこの一回だけは、どんなに舌の上でゆっくり味わったとしても、食べ終わるのを勿体なく感じてしまっていた。

 だが、食べ終わってしまっても、悲しむには至らなかった。この作品は、喉の奥に落ちた後も、口のなかでずっと余韻を残してくれる。涙が去った後のようなつんとした感覚と、優しく強い、勇気の味を。

 

 この感動を、少しでも多くの人に知ってもらいたい。この素晴らしい作品が、見えない生きにくさにもがくような、そんな人々の手に届くと良い。

 そんな気持ちで、この記事を書いた。アフリエイトなどは特に何もしていないので、収入などは入らないが、誰かがこの作品を読んで共感してくれたら、それだけで、私はとても嬉しく思う。

 

 

おまけ

ところどころで、壁に「キバはむかずに前をむけ」とか「食べる前に 毛洗い・手洗い・爪洗い」などと書かれた張り紙があったりする。こういう絶妙な戯言のセンスも、ニヤニヤさせられてとても良い。

 

 

「破壊する創造者 ―ウィルスが人を進化させた―」要約

「人間はウィルスと共存して生きることは出来へんのか」

 

 「感染列島」で投げ掛けられたこのセリフに、答えを示したのが本書である。上橋菜穂子が『鹿の王』の着想を得た本として有名になったので、ご存知の方もいるかもしれない。私も『鹿の王』読了後にこの本に触れ、目から鱗が剥がれるような快感を得た。

 だが驚いたことに、税抜き1000円でしかなかったこの本は、2020年5月の時点で、Amazonで何と4000円で販売されているらしい。感染症への関心の高まりが、これほどにも洛陽の紙価を高めるとは。それほどに、今、読むべき価値が高いということだ。

 

 この本を買いたくても買えない人のために、この記事で、せめてかいつまんだ内容だけでも伝えられればと思う。

 

進化論について―はじめに

 本書で取り扱っているのは「進化の推進力となるもの」だ。なので本文に入る前に、まずは「進化」、つまりダーヴィンの自然淘汰説を簡単に紹介させていただきたい。ダーヴィンの説について、ほとんどの人は聞いたことがあるだろうが、実は社会で信じられているダーヴィニズムには誤解が多い。もしこの種の話を聞き飽きていれば、記事は次の章まで飛ばして構わない。

 もしあなたが、「進化とは、より顔が美しくなったり力が強くなったりすることなのだから、世代を隔てれば隔てるほど、種族はより優れた存在になる」と考えているならば、それはダーヴィンの意図する自然淘汰ではない。進化論の基本的な考え方は、「弱肉強食」ではなく「適者生存」であるからだ。

 たとえばある鳥の種族において、「遠くへ行けた方が生存率を高めるため、羽が大きい方が有利である」という淘汰圧や、「羽が大きいオスが素敵である」というメスの選好(これも淘汰圧の一種だ)が働いたとしよう。そうすれば羽が大きい個体の方が生き残りやすくなり、メスにも選ばれるので遺伝子を残せる。一方羽を小さくする遺伝子をもった個体は、生き残りにくい状況に置かれる上に、遺伝子が後世に残りにくくなる。膨大な時間をかけてこういうことを繰り返せば、次第に種全体が大きな羽を持つようになるのだ。

 此処からがよく誤解されるところなのだが、何が淘汰圧となるかは定められているわけではなく、状況により理不尽に変わる。例では「遠くへ行けるから」という理由で羽が大きい方が有利となったが、この「」の部分は、環境の変化により簡単に変わってしまう。しかもその変化には、何の意図も目的も働かない。強いから生き残る訳でもなければ、美しいから選ばれるわけでもない。ただ、その時たまたま必要となった条件に向かって、驚くほど緻密に、適正な個体(遺伝子)が生き残り、結果として選ばれたことになる。

 こうした「盲目の時計職人」とも呼ばれる淘汰の力によって、種は少しずつ変化していく。この変化のことを、進化と呼ぶ。此処まで読んでいただければお分かりだと思うが、進化は、初めから設計図があるわけではない。そのため、時には多くの不具合がある。人間の眼球に「盲点」なるものがあるのも、この事実を証明するために引かれる例として有名だ。完璧な肉体を目的として身体を設定したならば生まれようもなかったものだが、進化はそのように身体をデザインするものではないのだ。

 

 ちなみに。もし、「何故社会で信じられている「進化論」は「弱肉強食」のニュアンスのように誤解されているのか?」という疑問を持たれたら、吉川浩満『理不尽な進化』(朝日出版社)が詳しく解説しているので、手にとってもらいたい。

 

1.生き物に宿るウィルス

 さて、本題に入ろう。本書が取り上げているのは、「進化の推進力となるもの」だ。「羽を大きくした方が有利だ」という状況であっても、ゲノム(遺伝情報)が変わらなければ変化は起こらない。そのゲノムの変化を起こす原因は、主に3つある。一つめは「突然変異」、二つめは「共生発生」、三つめは「異種交配」である。この中でも「共生発生」の話が興味深いので、この記事では「共生発生」について解説していく。

 

とあるウミウシの話

 まず、「エリシア・クロロティカ」というウミウシの話をしよう。このウミウシは、生まれてすぐ藻類の糸状体を探し求め、見つかればこの藻類に付着し、食べ始める。藻類の細胞壁を破り、葉緑体を吸い出し終わると、ウミウシは口を失い、その後は生涯、太陽のエネルギーだけで生きていくことになるのだ。

 だが、ウミウシの体内に取り込まれた葉緑体が存続するためには、タンパク質が必要だ。この供給に必要とされる重要な遺伝子は、進化の過程の中でウミウシの細胞に受け渡されたらしく、その過程にはウィルスが関与したということが分かっている。逆転写酵素と呼ばれるものを持つこの種のウィルスはレトロウィルスと呼ばれるが、どうしてこのウィルスが、植物界、動物界という全く異なる世界の生物を結合させたのか、残念ながらその仕組みは現在分かっていない。

 だが、このウィルスが起こしている現象はこれで終わりではない。卵の産み付けが終わるとすぐに、ウミウシたちは必ず病気になり、死ぬことになる。この時、体の内部にあったウィルスたちが、あらゆる組織、器官に充満するからだ。つまり、生きていくために欠かせない遺伝子操作に関与したウィルスが、突如、敵に変わるということになる。まるで、死が予めプログラムされていたかのように。

 

 「共生」の単語のなかにこんな不思議な現象が隠されていたことに、私は目を見張った。のみならず本書は、ウミウシだけではなく哺乳類もまた、ウィルスと共進化してきたという。

 

ヒトゲノムの中に

 実は自然界にあるウィルスのほとんどは、宿主と長期にわたる関係を維持するため、宿主を大きな病気にはしない。だが時には、ウィルスが新たな宿主と良好な関係を結べないこともある。この結果、宿主の数は減少するが、そうして生き残った集団の遺伝子構成は、感染前の集団とは異なってくる。こうして生き続ける宿主とウィルスは共進化し、やがて相利的な関係を築いていくという訳だ。

 

「えっ、ウィルスがヒトの中に生き続ける?!」

 と、意外な思いを抱く人も多いだろう。しかし過去にそういうことが繰り返されてきた証拠は、私たちのゲノムの中に眠っている。ヒトゲノムの構成要素の内訳はご存じだろうか。タンパク質の合成に必要な情報を保持する「遺伝子」は、全体のわずか1.5%。この遺伝子の割合よりも、人間に過去に感染したウィルスの名残とされるHERV(ヒト内在性レトロウィルス)の方が多く、9%を占める。これよりもさらに多いのが、13%を占めるSINE(短鎖散在反復配列)、21%を占めるLINE(長鎖散在反復配列)と呼ばれる部分だが、何のために存在するかは分かっていない。更に、ゲノムの残りの52.5%の詳細も不明だ。

 

 ほとんどがよく分からない物質であるという事実よりも、私たちの中に、遺伝子よりもウィルスの占める割合の方が多いことに驚かれることだろう。だが、これはおかしなことではないのだ。ウィルスは、遺伝子や、それを働かせる機構を棲み処とする。それにレトロウィルスは、宿主の細胞の核に自身のゲノムを注入して宿主のゲノムと自らを結合させ、宿主のゲノム制御機構を乗っ取って、自分のコピーを強制的に造らせるのが専売特許である。さらにレトロウィルスには、ゲノムの融合を起こす「内在性化」という重要な能力を持つ。これが起こると、自由に動き回って他の個体に感染できたウィルス(外在性ウィルス)が、生殖細胞に定着して内在性ウィルスに変わり、宿主のゲノムの一部として、ほぼ永久に生きられるようになるのだ。これは、「共生によって新たなゲノムが生まれた」ということも出来る。

 筆者は、ヒトゲノムの34%を占めるLINEとSINEは、この種のレトロウィルスに由来するのではないか、と推測している。

 レトロウィルスの遺伝情報が転写されたDNAが、宿主のDNAに組み込まれた状態を「プロウィルス」と呼ぶが、この「プロウィルス」が「内在性レトロウィルス」に変化したのを目撃した例もある。オーストラリアで急増した、血球の癌にかかるコアラだ。調べてみるとこの病は、個体と個体が接触することによって感染する「外在性レトロウィルス」ではなく、コアラの生殖細胞系に侵入した「内在性レトロウィルス」によって引き起こされていると分かったのだ。そしてコアラの子供には、この「内在性レトロウィルス」が関与した生殖細胞のゲノムが伝えられたことが確認された。

 つまり、ウィルスが関与して元々のゲノムが変化した様子を、目の当たりにしたことになる。

 

2.ウィルスがもたらす利益、不利益

 実はレトロウィルスに由来する能力の中には、私たちヒトの生存に欠かせないものがある。それが「胎盤」である。胎盤の役割は、胎児の抗源と母親の血球が触れあって拒絶反応を起こすのを防ぐことだ。この胎盤を作るには、細胞同士が一つ一つの細胞膜をなくすことで融合し、薄いプラスチック膜のような「合胞体」になる必要があるが、元来、私たち脊椎動物の細胞には、このような合胞体を作るような能力は備わっていないというのだ。

 だが、HIV-1のようなレトロウィルスには、哺乳類の細胞を融合させる力がある。それを裏付けるように、このような細胞の融合を可能にするタンバク質を合成するための情報は、ヒト内在性レトロウィルスの領域で見付かったのである。レトロウィルスとの遺伝子レベルでの共生が、ヒトの進化に関与していることを示す一例である。

 

 だが、ウィルスは人間に利益だけをもたらしてくれるものだと、安易に考えることも出来ないようだ。例えば、動物に自己免疫疾患をもたらしたのもまた、ウィルスである可能性が高いらしい。自己免疫疾患とは、本来は外部から持ち込まれたものを攻撃する筈の免疫システムが、誤って自分の細胞を攻撃してしまうことだ。これはウィルスが、宿主の動物自身の抗原の擬態をするために、免疫システムは自らの組織を損傷させるような反応をしてしまうのだ、と主張する研究者もいる。

 レトロウィルスに関する謎はまだ完全には解き明かされていない。ウィルスが生き物の進化にどのように影響したのかという説明も、まだできないだろう。

 

 だが、一つ確かに言えることがある。ウィルスが存在しなければ、私たちは、今の私たちではなかっただろう、ということだ。

 

おわりに

「生き物はみな、病の種を身に潜ませて生きている。身に抱いているそいつに負けなければ生きていられるが、負ければ死ぬ」

 

 『鹿の王』のリムエッルという医師の言葉だ。『鹿の王』の冒頭には、〈光る葉っぱ〉という生物が登場しており、これは、エリシア・クロロティカがモチーフになっていると考えられる。

 『鹿の王』では、「病の種と共存する」主人公ヴァンと、「病を滅びの手段として使おうとする」者たちが描かれる。この本を読んで、私は病に対する考え方が変わった。

 

 ウィルスは、私たちに害だけをもたらす存在ではない。

 だが、かといって、利益だけを与えてくれる存在でもない。

 

 この『破壊する創造者』は間違いなく、あの素晴らしい作品の根本を支えるものであった。

 

 ウィルスは間違いなく、生き物の進化に一枚噛んでいる存在だ。だがその進化は、「ウィルスを撲滅するために人間が強くなった」という、単純な考え方だけでは説明が出来ない。もっと複雑で、とらえどころのない興亡とせめぎあいが、私たちの身体の中で起こっていたのである。

 

 COVID-19で大切な方々を亡くされた人もいるだろう。職を失ったり、減給の憂き目に遭った人も多いと思う。ウィルスなんて、全てこの世から根絶してしまえば良いのに――そう思ってしまうのも自然な流れだ。確かに社会的な側面やミクロな視点からすれば、ネガティブな影響ばかり引き起こしているようにも見える。交通手段の発達も裏目に出て、爆発的な流行となってしまったからなおのこと、その印象が強い。

 

 だが、COVID-19を害だと断ずることは今は出来ない。この新しいウィルスが私たちの身体に引き起こすかもしれない変化は、途方もない年月の果てにしか、答えが出ないものなのだ。

 

 生き物――ここでは便宜上ウィルスも含める――は、生きようとしているだけだ。進化をしようとしているわけでもない。害や利益を与えようと考えているわけでもない。生存の道を探るために、別のモノを排斥したり、或いはそのモノと共存したりしながら、ただ手探りで形を変えているだけだ。

 

 このCOVID-19が、ヒトの進化に影響を与えるかは分からない。だが今、私たちの身体に、新たな足跡が刻まれようとしているかもしれない――そんな想像に、私は神秘を感じてしまうのだ。

 

 

 

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価格が落ち着いた頃に、是非。

 

『感染列島』レビュー ※ネタバレあり

 未知のウィルスが、爆発的に日本中を席巻していく――。映画『感染列島』は、その恐怖を描いた映画である。

 

 この種の映画には、その作品そのものの質に加えて、後天的に付与される面白さがある。「答え合わせ的なおもしろさ」とでも呼べばよいだろうか。近未来タイムスリップものも同じである。『バックトゥーザフューチャー2』の中の2015年の世界を見た時、「これは今ある!」とか「これはないなぁ」とか、作中に登場するものと現実とを照らし合わせる筈である。22世紀が舞台の『ドラえもん』さえもこの種の面白さが付加されつつあり、例えば、今ではGPSやフォトショプで代替できるようなひみつ道具があったりする。

 この時感じる面白さとは、物語の内容そのものとも、ましてや作者の意図とは全く別の次元に存在する。未来を舞台にした作品は、時の流れによって、自然とこうした面白さを獲得していくのだ。現在『感染列島』が多くの人に見られているのも、コロナウィルスの影響でこの映画がそうした面白さを与えられたからだろう。今回はそうした観点も含め、この映画を評していきたい。

 

1.マクロ視点

 この作品では、フィリピンから持ち込まれたとされるウィルスが日本列島で爆発的に広がっていく、という筋である。主人公は救急外来医で、日本で初めてウィルスの感染者が出た地域の病院に勤めている。ある時その病院にWHOから派遣された女医が助言に来るのだが、その女医が主人公のかつての恋人だった、というような形でストーリーは進む。

 もちろん院内での出来事と並行して、社会の混乱も描かれる。道路の封鎖、「不要不急の外出は控えてください」というアナウンス、買い出しのパニック、医療崩壊、緊急外来に殺到する人々と、幾つかはこの2020年で起こっている現象と重なった。特に統制がとれない人々のせいで、感染がじわじわ広がっていく過程がリアルだ。現実でも、外出自粛を言われているのに出歩いたり、旅行に行ってしまう愚かな人々によって、ウィルスは止まらない出血のように広がり続けている。

 この映画のウィルスは、致死率が極めて高いことが特徴である。だからなのか、「現実味が持てない」と言う人々はおらず、皆が一様にパニックに陥るなど、社会に生きる人々の足並みは常に揃っている。現実には、テレワークをさっさと導入した企業もあれば、導入が遅々として出来ない企業もあり、10万円給付に狂喜する市民がいる一方で、政府からの補償が少ないことに対する不満もあり、恐怖を感じる人々がいる一方で、ウィルスへの恐怖にも開き直る人々もおり、実に、一つの出来事に対しても様々な反応が巻き起こっている。だがこの映画では、人間の感受性の違いによる温度差みたいなものは、あまり表現されていない。

 医療方面の再現度は非常に高いので、作者はおそらくは医療関係者なのだろう。ただ社会のパニックを描くとき、経済という視点もまた、ごっそり抜け落ちている。後出しジャンケンのようになってしまうが、現実には、感染拡大を抑えたいという思惑と、経済への影響は最小限に留めたいという思惑が、政府の葛藤になっている。この映画の中においては街はあっさり廃墟となるが、その間の補償は? などの問題は持ち上がっていないし、株価が暴落しているなどのニュースの描写もない。

 とはいえ、この映画でその辺りを突き詰める必要はあったのだろうかと考えると、必要ではないとも思う。この作品は、社会ドラマというよりも医療ドラマなのだから。

 

 なのでこの観点で映画をほじくり回すのは、あまり紳士的ではないだろう。医療ドラマの内容の方を、もう少し掘り下げていきたい。

 

2.ミクロ視点

 この映画において、良いシーンはたくさんあった。一つは、医療崩壊を起こして人工呼吸器が足りなくなってしまうシーンである。「呼吸器が足りない!」医師たちはそう叫び、一つの呼吸器に目を向ける。そこに繋がれていたのは、まだ幼い少年だった。その少年がもう永くないということは、医師の誰もが分かっていた。

「あの少年の呼吸器を外して、この患者に付けてしまえば?」
「でも、そうしたらあの子は直ぐに死んでしまう!」
「何を言っているんだ、少しでも生存率の高い患者を救うのが、医師としての務めだろう!」

 そんなやりとりがされた後、看護師の一人がその子の呼吸器を外すように命じられる。「私は嫌。先生が外してくださいよ」と看護師は抗い、口論になりかけるが、やり取りを聞いていた栄子という医師(主人公の元恋人)はつかつかと歩み寄ると、「貸して。私がやる」とその場の医師たちを押しのけ、自ら人工呼吸器を外す。間もなく男の子の息は静かに止まるが、栄子は一瞬顧みた後、「他に呼吸器を外す必要がある患者はいる? 私が全部やるわ」と言い放ち、淡々と呼吸器を外していく。医師としてのある種の使命感を漲らせた姿に、周りの医師たちは圧倒される。 

 治療が一通り終わった後、主人公の松岡医師は、外で栄子の姿を見つける。夜のベンチには、雨が降りしきっていた。松岡が隣に座ると、今まで気丈に振舞っていた栄子は、無言で涙を流して松岡に抱き着いた。松岡も無言で栄子を抱き締め返す。

 

 このシーンは非常に印象に残っている。こういう場面においては、鑑賞者にも予想できるような無駄なセリフを、ついついたくさん喋らせたくなるものである。曰く、「私が殺したの~」だとか、「君のせいじゃないよ~」だとか、そういったものだ。必要のない台詞は興を殺ぐばかりでなく、作品の質さえも貶めてしまう。その点この無言の演出は、引き締まっていてとても良かった。

 

 良いシーンと言えば、他にも、献身的な看護婦が死んでしまうシーンも、とても切なくて感動的だった。医療ドラマの感動ポイントがしっかり押さえられていて、ハラハラした。

 

3.マクロとミクロの統合

 この作品の一番の山場はやはり、ヒロインの栄子が「新しい治療法」を試して犠牲になるシーンだろう。だが、この山場においては、少し引っ掛かりを覚えてしまった。確かに一医者の覚悟が、治療薬開発への一歩を踏み出したという展開は感動的ではある。だが並行して、松岡医師が同じ治療法を女の子に試したのは疑問だ。「これから血清治療を試すけど……致死率はまあまああるの……もう会えないかもね……」と語る栄子とテレビ電話をしながら、同じ血清治療を目の前の瀕死の女の子に試すものだろうか。このままでは助からないから一か八か、という論法は分からなくもない。だが、だとすれば、この後半で描かれる「栄子という一医者が勇気をもって治療法を試したおかげで薬が開発され、人々は救われた」というエンドのインパクトは薄れてしまうのではないだろうか。薬を試したのは栄子だけではなかったということになるのだから。

 栄子という個人の死が、感染症の撲滅という社会の課題解決に繋がったことについても、少し強引に感じてしまった。物語間でのミクロとマクロの連携というのは、それもことに感染症というテーマでは非常に難しい。治療薬開発までに費やされる時間的なラグと、地道で膨大な作業量のせいで、ミクロで起こった個人レベルのことが、マクロ的な効果に繋がったと実感しにくいのだ。それに感染症は、誰か一人の圧倒的な功績というよりも、社会の中の誰かが階段の一つを築き、別の誰かがさらにその上に一段を築くというスタイルで解決への出口まで積みあがっていくという側面が強いから、いっそうそんな風に感じてしまうのだろう。

 例えばその点を、『鹿の王』のようにもう少しきちんと向き合えたら、この作品はより良いものになったかもしれない。とはいえ、この映画から学ぶことは多かったと思う。

 

4.おまけ

 この映画のレビューには「町の人たちがマスクをしていない」「こんな軽装じゃ広がるに決まっている」などと書かれており、それがまさに2020年の今起こっていることじゃないかと、SNSでは話題になった。こうしたレビューを見て私は、鑑賞者が作品に求めるリアリティーとは、人為的なものなのかもしれないと感じた。

 作品の鑑賞者は、設定というは隅々まで張り巡らされてしかるべきだと思う。その設定の行き届き具合が作品の完成度を決め、そこに穴があると創作側のミスだと思う。だから「こんなに感染が広がっている日本から、あっさり海外に渡航できるの?」とか「だとすれば、もっと世界中にウィルスが撒き散らされていないとおかしいよね」とか色々矛盾を指摘し、悦に入っている。

 だが、現実はどうだろう。政府の政策は隅々まで浸透しているわけではないし、人々の行動も一本化されている訳ではない。外出自粛と言われても出掛ける人は一定数いるし、リモートワークが推奨されても、全ての企業の足並みは揃えられない。この混乱、迷走こそが実情である。

 つまり、「設定が徹底されていて欲しい」というのは鑑賞者の裏の願望の表れなのだろう。もしかしたら認知バイアスの一つかもしれない。人々に好まれるのは常に、整備されているものの方なのだ。だから、行き届いていない部分や混沌に埋もれた部分を見つければ、即ち劣っていると考える。作品の穴ではないかと思い込む。

 

 だが、そこには無意識が隠れている。我々は、行き届いていない現実を生きているからこそ、整備されたフィクションを好むのだ。

 

天然石ブレスレットづくり(上級編)


 さて、後編である。前編では、ブレスレットデザインの基本的なスタイルを紹介した。

https://mikotoshinomiya.hatenablog.com/entry/2020/04/19/151944

 

 この後編では、「モチーフのあるブレスレット」を紹介していきたい。順番に見ていこう。

 

1.波しぶき

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ポイントは、エメラルドグリーンのアマゾナイト

 このブレスレットの舞台は、南国の海の浜辺である。人気のない浜辺に、繰り返し寄せては返す波、その軌跡に残った泡が、白砂の上でしゅわしゅわと溶けていく。そんな様子をイメージした。エメラルドグリーンのアマゾナイトが目を引くが、白と水色のクラック水晶も印象に残る。その水色のクラック水晶の横にグリーンフローライトが寄り添った他、浜の色としてアラゴナイト、小波としてブルーアラゴナイトをあしらった。

 きっとこの海に踏み出したら、透明な波は穏やかに足を洗い、たちまち後方に流れていくのだろう。視線の少し先はエメラルドグリーンに沈みきっていて、魚がいるのかまでは分からない。波の表面には細かな光の粒がたゆたい、常に揺らいでいる。時折、何かの背びれが、虹のような光を見せるかもしれない。

 波は、寄せては返しながら静かに消えていく。足許に視線を落とすと、水は、砂の一粒一粒を透かすほど澄み渡っている。ふと、水の中から砂を掬っても良い。だがその途端、それは熱を浴びた雪だるまのように、たちまち指の間から溶けてしまう。

 僅かに湿り気を残した手の平を見つめる。そうして立ち尽くしている間にも、辺りには、重なっていく飛沫の音だけが響き続けるのだろう。

 

 

2.海鳥の目から

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上の大きい青い石はとんぼ玉。中に砂のようなものが入っている水色の石は夜光石である。

 前の作品と同じく海を舞台にしたブレスレットだが、このブレスレットの視点は、海の上を飛ぶ海鳥である。海鳥の旋回する北には深い海があり、星屑のような光が底の方に抱かれている。とんぼ玉とキャッツアイで表現した。それが南に行くにつれ、徐々に明るい色の海へと様相が変わっていく。ブルーカルサイト、バイカラーのビーズ、水色のクラック水晶と移った後に、夜光石の飛沫がとぶ。夜光石の飛沫は、白のキャッツアイと青いスワロフスキーの向こうにある、ホワイトオニキスの浜に辿り着く――そんなところだろうか。

 

 

3.翔蛍(ショウケイ)

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ホタル石がポイント

 星が降るような夜空の下、僅かに月明かりを映した川に集う、ホタルをイメージして作ってみた。石としては、天然石はほとんど使っていない。ポイントとなるのは2つの蛍石、その次に目を引くのは、青のキャッツアイと、バイカラーのビーズ。水面に映る複雑な陰影を表現した。蛍石の横には白いキャッツアイ、青のキャッツアイの横には、小さめのブルータイガーアイを。全体の多くを占める晴れた夜空のような石は人工的に着色されたものだが、見た目がとても美しかったので、まとめ買いしてしまった。写真では黒く潰れてしまっているので、この輝きが分かりにくいかもしれない。

 

4.初春

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ローズクォーツがメインのブレスレット。桜の形の石も含めて4つ使っている

 ほころんだ桜のローズクォーツが可愛くて、作った後に「初春」と名付けた。ローズクォーツが桜なら、小さなインカローズは小梅で、反対側に位置する2つのピンクトルマリンツツジだろうか。4つ並んだストロベリークオーツはナデシコかもしれない。平安時代の春、京の庭園の一角に咲いた花たちだ。貴族たちは縁側からこの花たちを眺めながら、流麗な字で和歌を書き付け、想い人に届けるに違いない。小箱を開いて手紙を読んだ女も、御簾越しにふと庭を覗き、春の訪れを感じるだろう。良い香りを焚きしめた袖で顔を隠しながら、あの人も同じ景色を見ているかと、物憂い眼で思いを馳せたことだろう。

 

5.雪うさぎ

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 ムーンストーンを手に入れたことにとにかく浮かれ切って、この石を活かすようなブレスレットをと思って作ったものである。まるで天の川のようなとんぼ玉の横に、月が二つ。それを見上げる3匹のうさぎ、モルガナイト。白いキャッツアイは雪を、透明な水晶は氷を表している。ねじり水晶がアクセントだ。

 ムーンストーンとうさぎというテーマは、親和性がある。やわらかいピンク色のモルガナイトと、ほのかに内側に青い光を内包しているホワイトのムーンストーンは、見た目にも優しい。だが、これだけではぼんやりとした印象にもなってしまうので、今回はとんぼ玉を置いてみた。ほんわかとしたブレスレットを作りたい、と思っているなら、パステルカラーの石だけで構成するのもアリだ。

 

6.太陽系

 太陽系をイメージしたブレスレットを、私は2つ手掛けたことがある。一つ目は、星をタイガーアイだけで構成したものである。

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 左のタイガーアイは最も一般的に目にするもので、太陽を表している。右は、写真では分かりにくいが、紺、青、緑の色を人工的に入れたタイガーアイである。「公転していく地球」といったところだ。表面の色を変えながら、ブレスレットの軌跡に時を刻んでいく地球である。

 このブレスレットは、ほとんどタイガーアイしか使っていない。他に使っているのは、内側に金色の針を抱き、太陽から発する波動を表したルチルクォーツと、宇宙空間のガスを表したスモーキークォーツだ。

 

 次のブレスレット、これは分かりやすい。

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 ロードナイトが太陽、ソーダライトが地球である。ソーダライトの横に寄り添うアラゴナイトは月だ。上に位置するのが水星、下が火星で、これを、小さな黒い天眼石が囲む。宇宙空間には、例の

お題「#おうち時間

星を思わせる人工の石を全面的にあしらった。これは母親にプレゼントしたものなので、今までのものと比べると少しサイズが大きめの仕様になっている。

 

 ちなみに、ソーダライトは本当に地球を思わせるような石なので、何かの折に地球を使いたくなったら、是非ソーダライトを使ってみて欲しい。

 他にも、ムーンストーンは、惑星系を表すのに最適な石かもしれない。いつか、太陽系以外の架空の惑星系をイメージしたブレスレットも作ってみたい。恒星が複数あったり、太陽系には存在しない惑星を模したり。

 恒星とするのは、サンストーンやペリドットなど、太陽の力を内包していると古来からみなされてきた石が良いだろう。惑星には、天眼石やブルーレースアゲート、ブラックラブラドライトが映えるだろう。チャロアイトスギライトも神秘的だ。高いが、インカローズなどを一つあしらってもいい。恒星の存在感を大きくするために、恒星となる石はワンサイズ大きめをチョイスすると良い。

 或いは、「1日」というテーマで、西には夜を思わせる石を、右には昼を思わせる石を配置しても良い。ブラックオニキスとシトリンを対にし、その間をグラデーションになるように石で繋いでいくのだ。

 書きながら作りたくなってきてしまった。自粛が終わって石屋が開いたら、石を揃えに行くかもしれない。

 

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まるで木星のような石、赤天眼石

 

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黒い石がラブラドライト、緑色の石がペリドット

まとめ

 いかがだっただろうか。少しでも、天然石の良さが伝われば幸いである。

 天然石の世界は奥が深い。「上級編」など偉そうに銘打ってしてしまったが、私とて完全なる素人である。これからもっと腕を磨いて、奥深いブレスレットを作っていきたい。

 あと、本編では紹介しなかったが、好きなゲームやアニメがあるなら、そのキャラクターをイメージしたブレスレットを作るのもオススメである。既にそういう公式グッズも存在するが、自分で作るのも格別の楽しみだ。

 

 どうか楽しい石ライフを。この記事がその一助となれば幸いである。

 

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おわり。

 

天然石ブレスレット作り(初級編)

 天然石を手に取ってみると、実に色々な個性があるのが分かる。表面に複雑な模様が渦巻いているものもあれば、中に雲のような結晶が形成され、角度によって透けたり光ったりするものもあるし、向こう側まで見通せるほどクリアなものもある。そんな天然石にすっかり魅了されてしまった私は、天然石を使ったブレスレットを作るのを趣味にしている。今日はその中で何点かの作品を紹介したい。新しい趣味を始めたいなと考え、天然石のブレスレット作りに興味を持っている人は参考にして欲しい。そうでない人も、この綺麗な石たちの表情をお楽しみいただければと思う。

 

1.とにかく同じ石を並べたい!

 一番作りやすいのはこの形なので、初心者にオススメである。規則的と言っても、全く同じ石を使うか、違う石をいくつか混ぜるかで雰囲気が異なる。まずは、石を一種類だけ使うパターンを見ていこう。

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  これは、フローライトと呼ばれる石である。微妙に大きさや色が違うことに気付かれるかもしれない。全部同じ形や色の石を使っても良いのだが、どうせなら表情の違うものをと思いこの組み合わせにした。このブレスレットは、いつもブドウを彷彿とさせる。手にすると、一つ一つの石の表情の違いが分かってより面白い。

 また、間にあしらってあるのは、ボタンカットの水晶である。同じ石同士をただ繋げると「数珠」感が増すため、アクセサリーらしさを出してみた。ちなみに水晶は万能の石と言われ、ブレスレットには最も使用されることが多い。ブレスレットがごちゃごちゃしてきた時も、取り敢えず水晶を入れておけば間違いがない。

 水晶がなければ、ビーズやスワロフスキーなどで代用しても良い。ユザワヤ貴和製作所にいくらでもあり、意外と安価で手に入る。今回の作品にはあまり紹介がないが、私も、お茶を濁す時にはよくスワロフスキーを使う。石が足りない時などにはオススメである。

2.失敗しないブレスレット作りがしたい!

 二つ以上の石を使うなら、規則的な並びにしてみるとやりやすい。まとめて紹介するが、次のようなパターンがある。同じ時期に作ったので、雰囲気が何となく似ている。 

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 左は、南国の浜辺をイメージした。アマゾナイトというエメラルドグリーン色の石(大)を3つと、その横に捩じった水晶を置く。この間を、両脇をマザーオブパールで挟んだアマゾナイト(小)でつなぐ。この場合、アクセントとしてアマゾナイトの大きさを変えてみたが、同じ大きさの石を使ってみてもいい。

 右のブレスレットは、アクアマリンとシーブルーカルセドニーという石で作った。冬の氷湖を思わせるのがアクアマリン、夏の海の浅瀬を思わせるのが、シーブルーカルセドニーだ。自分の手首のサイズに合わせているため、シーブルーカルセドニーの数はやや変則的になっている。

 此処で、ブレスレット作りに1ポイントアドバイス。失敗をしたくないなら、同系色でまとめること。色合いとしてもおかしなものにはならない上に、色が似通ったものは効能が近しいものが多いため(例えばピンク色の石のほとんどには恋愛的な効能がある)、散らかりにくくなる。

 また、同系色で作るブレスレットの参考として、下記のような例も挙げておこう。これはどれも店頭で購入したものだ。左のものは、大きさが合わないために作り直し、白いキャッツアイを入れるなどの手を入れたが、基本的な配置は変えていない。同系色のブレスレットから少し冒険したくなったら、左のブレスレットのように、二色で作ってみるのもアリだ。また、あまり見かけることはないが、丸い石以外を取り入れてみるのも一つの手かもしれない。

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左:ネイビーの石がソーダライト。横の瑠璃色の石は「瑠璃」の言葉の由来にもなっているラピスラズリ。水晶の横、一番小さい石がアクアマリン。 右:アプリコットアゲートと、シーブルーカルセドニー。シーブルーカルセドニーは人工的に色を入れた石なので、色の出方により雰囲気が変わる。

 

3 高価な石を使いたい!

 「欲しい石を見つけたけど高い! どうしたら……」と思った時に、試せる方法がある。確かに、その石だけで構成されたブレスレットは、ショーケースの向こうでしか見られないかもしれない。そんな時は、粒買いがオススメだ。そして、その石がポイントになるようなブレスレットを作れば良い。

 写真の石はどれも手に入りやすい石だが、こんな風に作ってみては? という参考に載せてみた。

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左:アメジスト。右:カイヤナイト

 左が、アメジストとブルーアラゴナイトである。これを、クラック水晶と普通の水晶で囲んでみた。水晶が水を思わせる石だとすれば、クラック水晶は飛沫である。或いは、時として氷のようにも見える。

 右のブレスレットで使われている深海のような石は、カイヤナイトである。二つほど、全体の表情が引き締めるために変わった色のビーズを入れてみたが、これ以外は全て水晶である。水晶はあらゆる石の中で最もシンプルな石だが、大きさや加工の仕方が異なるものをあしらうことで、動きを出すことが出来る。

では、何の変哲もない水晶だけで作ってみたらどうなるのか? 比較として、ブレスレットを載せてみる。メインの紫色の石は、チャロアイトと呼ばれるもの。写真では分かりずらいが、まるで、人の住めない惑星のような石である。他、赤い色付きクラック水晶が二つ入っているが、それ以外は水晶だ。

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チャロアイト。赤いのがクラック水晶だ

 いかがだろう。悪くはないが、少なくとも私には、面白みが少なく感じられる。

 ブレスレットは、手首の何処を回しても表情があるように作るのが、一つのコツになる。上の例では、チャロアイトが見えている時は良いが、角度を変えれば水晶だけになってしまう。別にそれが悪いわけではないが、どうせなら遊び心がある方が良いではないか。

 

 石を強調させる方法は、水晶を使う以外にも方法がある。こんなものも参考にいかがだろうか。これも購買品である。

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アラゴナイト、プレナイト、イエローメノウ

 一番大きいのがアラゴナイトという石で、横の薄緑色がおそらくプレナイト、ハチミツを思わせるのがイエローメノウだ。目立たせたい石の横に、金具をつけるというやり方である。

 このブレスレットの場合は、丸く加工していないアラゴナイトを3つ配置してあるが、高級な石を使いたい場合も、このように、大きめの石1つ+小さい石3つを使ってみてもいい。 

まとめ 

 ブレスレット作りは奥が深い。今紹介したのは、ほんの一端である。

 近日中に「上級編」として、これとは全く違うデザインの作品を紹介するので、そちらも参考にしていただければと思う。

 

 最後となるが、一言断っておく。私は、ブレスレットを作る際に、ほとんど直感でくみ上げる。パワーストーンの効能や相性は、知ってはいるものの、あまり参考にしていない。

 とはいえ、石には力がないとは思っていない。ブレスレットを作った後、どうにもしっくり来なくて、結局解体することが何度もあるが、これは、石同士が合わないためだと思っている。

 単純に効能だけを重視してブレスレットを選びたいと思うなら、店頭に並んでいる「恋愛に効く!」とか「健康に!」など書いてあるブレスレットを買えば良い。サイトや本を参考にしてもいい。だが、効能だけを重視して石に頼るのは良くないと、個人的には思う。

 石は本来、人の営みから自由であるものだ。山の奥深くに抱かれ、何千年も眠っていたものの一部が、たまたま、人の手許に寄り添っているに過ぎない。その神秘を、俗世の欲望のためだけに所有するのは、石に対して失礼ではないかと思う。

 願を掛けたい気持ちを否定するわけではない。だがそれは、自らが、石に恥じない生き方をしてからだと私は思う。私も充分には達成出来ていないのだが、ブレスレットを作る時も、使っている間も、石にとって心地の良い状態になるよう気に掛けている。

 そういえば、石を手に入れた後は、必ず浄化を忘れないように。全ての石にとって手っ取り早い方法は、月光を浴びせることである。寝るときは、窓際などに置くようにすると良い。また、水晶も効果的だ。水晶のさざれは買っておくと良い。 

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砕かれた氷のようなものがさざれ。氷山に似たものがクラスターだ。

 石選びに関しては、特に言うことはない。まずは店に行って、「これ、何か良いなぁ」と思う石があれば、店員に名前を聞いてみると良い。何故か心惹かれる、そんな石が見つけられたなら、あなたがその石を求めているということなのだ。

 

 ぜひ、素敵な石と巡り合えますように。また、このブログの後編もお楽しみに。

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おわり。

 

コロナウィルスという白日が晒す、組織のカビ

あまり愚痴は書きたくないのですが、自分の頭だけでは整理できない事に直面したので記事にします。

 

新型コロナウィルス関連の、職場の話です。

 
この記事は、非常事態宣言が出る前の4月に書いています。感染者は増え続け、公に外出できなくなりつつあった頃です。うちの組織は3月末から時差出勤を行うことになり、電車通勤の人のみ、7:30-16:00のグループ、10:30-19:00のグループを選択出来るようになりました。私は後半組を選びましたが、19時台の電車には相変わらずかなりの人間が乗っています。以前ほどのギチギチの満員電車ではないとはいえ、避けたいのが本音です。

業務の量は、減りました。売り上げや取引が減ったわけではありません。上が決めるものを決めてくれるまで、何も動けないという状況です。普通のルーティンでの仕事はあるので、手持ち無沙汰になることはありませんが、普通の4月よりは暇だと思います。私も社会人2年目なので、デフォルトを把握しているわけではありませんが、少なくとも、今のように毎日定時には帰れないでしょう。

そんな中、先週、組織内部に1人感染者が出ました。

私のいる、1つ上のフロアです。

フロアにトップがやってきて、その旨を報告されました。続けて、偉い人の名前が惜しげもなく盛り込まれた文書が回ってきて、休日の外出を禁止すると伝えられました。

一方、テレワークの話は一向に出ません。

かなり大きな組織ですから、全ての部署の足並みを揃えるのが大変であることは理解できます。部署によっては、行いたくても行えないところもあります。その上、テレワークなどの意思決定が出来るトップは、山ほどある検討事項であちこち動き回り、疲弊しきっています。社員のテレワークなんて、誰も考える時間がないのでしょう。

でも、個人的な思いとしては、電車には乗りたくありませんし、ましてや感染者の出た職場に行きたくなんてありません。職場に行っても、仕事は少ないのです。

業務にゆとりがあることも鑑み、私は上司に一日の有給休暇を申し出ました。テレワークの話が出ない現状に、一石を投じる目的もありました。

ですが、その後会議室に呼ばれ、有給休暇を許可することはできないと説明されました。

理由は、同じように休みたいと申し出る人が出るのを防ぐためです。そうして社員が次々に休みだしたら困ると説明されたうえで、私が有給休暇を取ったら、心証が悪くなると諭されました。「こんな時にあの人はお休みを取っている」と思われないように振舞えとのことです。話の中では、「我々は組織だから」とか、「理不尽かもしれないが、分かってくれ」という言葉が繰り返されました。

皆が休みたい時に休みを取るのは、確かにひんしゅくかもしれません。周りが深夜まで残業をしている中、有休を取れば迷惑でしょう。でも、仕事も減っている状況においても、当たり前の権利を使うことに、周囲の目を伺わなければならないのですか。有給休暇は、労働者の権利ではないのですか。その当たり前の権利を行使するに際して、「業務に支障を来すほど心証が悪くなったらどうしよう」という心配をしなければならないというなら、あまりにも馬鹿げています。

部署の中では一番若く、新米の私が率先して休みを取るのは、確かに許されがたいことなのかもしれません。

でも、部署の人間が休みたいのに休めないのであれば、誰か一人の有給が、そんなハードルを下げるかもしれません。乗りたくもない電車に乗って、毎日懸命に働き続けている人に、こんな非常事態の時くらい、休ませてあげても良いのではないでしょうか。

私は納得できず、上司に対し、直近でやらなければならないことはあまりないのですと控えめに告げました。すると、婉曲ではありますが、私が一番下の立場にあること、そういう者は、電話対応なり何なりを率先してやらなければならないので、やることがなくなることはないはずだと言われました。

私は、悲しくなってしまいました。

そんなことのために、私も、私の家族も、毎日感染のリスクに晒されなければならないのか、と。

無症状の患者がいる可能性のある電車に乗ること、感染者の出た職場で仕事を続けること、一番家にいたい時に、それが許されないこと。

これは、労働という名の拷問ではないでしょうか。

給与が減ったり、倒産の憂き目に遭ったりしている人もいる中、こんなことを言うのは贅沢なのかもしれません。

ただ、休日の外出はほとんど禁止するように命じておきながら、平日のこととなると何も守ってくれないこの組織に、尽くしたい気持ちは消え失せてしまいました。


一度、組織の中でオーバーシュートが起れば、何かは変わるのでしょうか。

正直、そうなってしまえと思っています。何せ私は今、すごく投げやりな気持ちになっていますから。

でも、オーバーシュートが起こったところで、何も変わらないかもしれないとさえ思っています。「非常事態宣言が出たとしても、うちのトップが出勤停止と言わない限り、此処には来なければならないだろう」と、上司からは言われてしまいましたから。

そんなにしてまで、一体何を守るつもりなんでしょう。

もうこの組織に対して、真っ向から立ち向かい、声をあげる気はありません。

組織がクソであればあるだけ、そこから抜け出す気概は湧いてくるというものです。

 

 

 

誕生日サプライズの後日談と、好きなものについてのとりとめもない日記

昨日は、誕生日サプライズがいかに弊害をもたらすかという記事を書いた。

 

https://mikotoshinomiya.hatenablog.com/entry/2020/02/15/001000

 

この記事の後日談なのだが、15日、私の家族と祖母とで集まって誕生会をした後、9時くらいに解散して、友人の家に向かった。友人は男三人でシェアハウスをしており、月に一回、その古民家風の家で読書会を開催している。今月は祖母との誕生日会と重なってしまったが、私はアホなので「その後行けばいいじゃん!」と思って向かったのだ。行ってみたら、本の話をする時間はとっくに終わっていてGantz鑑賞会になっていたのだが、そこでいきなり電気が消え、チョコレートケーキが運ばれてきたのだ。

 

「光琴誕生日おめでとうー!!!」

 

えっ、何これ。ホワイトチョコレートで作られたプレートには、私の渾名が入っている。得意気な友人たちの顔が、ロウソクの光で照らされていた。

えっ、まさか私のために⁉ 全ての感情が、蓋を開けたスパークリングワインの泡のように、弾けて溢れ出していく。ついでに感激のショック療法で、日頃の仕事のストレスも全部ぶっとんだ。

 

単純で申し訳ないが、やはり、誕生日サプライズは素敵なものだと思った。あまりにも単純すぎて申し訳ないほどだが、やはり自分がされてみると嬉しい。こんなに幸せなことがあっていいのか。何なんだ「予定調和のありがとう」って。いつまでもサプライズを驚けるくらいの純粋な心と、多すぎない友人がいれば良いだけである。

 

こういう場で自分の幸せについて話すのは良くないだろうが、この出来事を通じて、誕生日サプライズについてはちょっと考えが変わった。今日という稀な一日のためなら、たとえ悲しみというリスクを負っても構わない、と思うほどに、特別な日になった。やはり持つべきものは友人である。性格の合わない恋人と、気の合う友人なら、個人的に欲しいのは断然後者である。

いや、訂正。やはり恋人は欲しい。自分の好きな人間と特別な関係になれるのは、純粋に素敵だ。ただ、好きな人間との関係の最適解が「恋人」であるとは限らないし、「特別な友人」というのもまた存在すると思うが、恋人は恋人でたぶん良いものなのだろう。

それに彼氏さえいれば、職場のセクハラ人間を一発で撃退出来て便利なのになとも思う。「私には彼氏がいませんが、あなたには興味がありません」ということを、相手を傷つけずに言うのは難しい。それが出来る人間がいたら、よほど誠実か、何らかの形であなたのことを大切に思っている証拠なので、自分の告白が断られた一時の動揺なんてすっとばして、末永く仲良くするべきである。

セクハラ人間には私なりに言葉を尽くしたが、諦めてくれたかは分からない。まあそれよりも、同じ課の女の上司に嫌われていることの方が困っており、正直、セクハラ人間は困り事の二番手である。ちなみに前にブログで書いた上司は、私とは反りが合わないものの尊敬できる人なのだが、この女上司は仕事と私情を分けて考えることが出来ないため、嫌われることによって仕事に差し支えを生じさせてしまう。無自覚の内に嫌われる理由を私が作ってしまったのか、人が話している最中にコピー機に伝票を取りに行くほど忙しいのか知らないが、私が話し掛けると、嫌いなものを無理やり食べさせられているような顔をするのだ。話し掛けても「忙しいので」と、要件を言う前に打ち切られてしまうし、大量に印刷をかけなければならない資料を、会議の直前になるまで渡してくれなかったりして、非常に困る。

11月あたりから、業務量に関することや仕事内容で生じるストレス、こういう諸々のストレス、自己肯定感の下落が原因で、仕事をしているとじんましんが出るようになってしまった。下腹部から太腿に至るまでの広範囲で、かきむしるのを我慢できないほどである。しばしばトイレに立って全身をかきむしっているのだが、そうしている間にも順調に仕事は溜まっていく。ベルトコンベアーで流れてくる弁当に、ひたすら梅干しを詰め続ける仕事と一緒だ。私がいない間にも、ベルトコンベアーはひたすら流れていき、私がいなかったところの弁当には梅干しが入れられなくなるのである。

 

ところで、先日書いた記事を読み返してみて、ひねくれてるな~と思った。こういうひねくれめの記事を書いたのは、尊敬するライターの影響かもしれない。その人のことは尊敬しているし好きなのだけど、性格がひねくれていて、私はその人へのリスペクトが過ぎるあまり、その性格の歪んだところまで自分の中に取り入れようとしてしまっている。この書き方では、「お前は本当にその人のことを尊敬しているのか?」と思われてしまいそうだが、そのひねくれている部分も含めて面白いのだ。ファンである。

私は、本当に「すごい!」と思う人間に出会った時、何でもその人の真似をしたくなってしまう。この人ならこう考えるのかな? とか、この人ならこんなことするかな? とか。まあそうして真似したくなってしまう人間が複数いて、その人間たちの要素と私の下地のちゃんぽんが現在の私なので、結果的に私は誰でもない。尊敬する人が一人しかいなかったら、ただの劣化コピーになっていたのだろうか。

 

この人について色々書くと、エゴサーチでこのブログに辿り着かれてしまいそうなので、今はしない。とはいえ、自分が一生その人に認識されずに終わるのも虚しすぎる。とはいえ、認識されるからには、何らかの部分で「この人はいいな」と思われたい。とはいえ、尊敬している人にすごいと思われたいなんて高望み過ぎるだろうか。と、「とはいえ」をずーっと頭の中で続けてしまう。結果、認識されたいぃ~

 

ところで、尊敬する人の尊敬する人として、小林賢太郎さんがいる。私も小林賢太郎さんが好きなので、小林賢太郎さんの話をしてお茶を濁そう。

 

知っている人には説明の必要がないかもしれないが、小林賢太郎さんはテレビにはほとんど出ないコントクリエイターである。コントクリエイター、というのは今考えた言葉だが、芸人という言葉があまりそぐわないのでちょうどいいだろう。美大を出ていて、現在はピンコントを中心に活動しているが、映像を使ったりアートを有機的に絡めるような舞台を作っているので、クリエイターという言葉がしっくりくる。

ピンコントも良いが、私が好きなのは「ラーメンズ」時代だ。片桐仁さんという、もしゃもしゃ頭の面白い人とコンビになっている。終始二人が大繩を回しているだけのコントとか、片方が竹馬に乗って無言の相方の周りをひたすら歌いながら回るコントとか、相方を標本にして新種の生き物のように語るコントとか、「新時代のオモシロ」を切り開こうとする強い意志を感じる作品が多い。創作されるのは単純な笑いだけではないから、必ずしも全部が観客にバカウケしているわけではないのだが、世の中の新しいオモシロの切り口にははっとさせられるし、その発見も含めて「おもしろい」。オモシロって、全てがゲラゲラ笑う種類のものではなくても構わなくて、「こんなことやっちゃうの?」という意外性も面白いし、「あ、こういう面白さがあるんだな」という発見だって面白いし、時には軽快な会話を聞いているだけでも面白い。そういう切り口をコントに落とし込めるのはすごいと思う。

二人とも演技があり得ないくらいうまいので、そこもまた見どころである。ちなみに全てのコントはYoutubeで配信されているので、誰でもすぐに見ることが出来る。

 

https://www.youtube.com/channel/UCQ75mjyRYZbprTUwO5kP8ig

 

このコンビのオススメコントをいくつか紹介しようと思ってYoutubeを見返していたのだが、無限に見てしまい小説を書く時間がなくなってしまいそうなので、今回は辞めておこう。好きなコントは各自で発見してもらいたい。フリーターになったら、めちゃくちゃ時間をかけて紹介記事でも何でも書いてみせるぞ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=tzWbdRU5QSc

路上のギリジン

誕生日サプライズが社会に落とす影

2018年以降、文壇での存在感は薄まる一方である私だが、本日、23歳になった。早すぎる。時間って奴は、ブレーキが壊れた暴走車なのか? たまには信号を見て止まって欲しい。

 

ところで誕生日といえば、サプライズというのが流行っている。お店を予約してくれた友人が、名前の入ったケーキを注文してくれていたり、友人の家に遊びに行ったらクラッカーを打ち鳴らされたり。さすがに私のイメージは古典的かもしれないが、まあ大きくはかけ離れていない(はず)

 

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Happy Birthday

私が高校の時は、サプライズという文化は今ほど市民権を得てはいなかったと思うのだが、私の同級生は誕生日の人にホースで水をぶっかけたり、ホールケーキを顔にぶつけたりしていた。その後はホームルームで「食べ物が勿体ない」という話をされた。此処は幼稚園か。

 

まあそういった感じで、陽キャの人ほど、何らかの刺激的な方法で加齢を実感すると思うのだが、こういうサプライズが「文化」になることについて、どう思うだろうか?私は、社会通念がサプライズを「当たり前」に押し上げていくのに、困惑を感じている。

 

私の話になるが、去年、友人から「お誕生日お祝いするよ!」とご飯に誘われたことがある。普通に食事を楽しんでいたのだが、会話の最中、友人がハッと言ったのだ。

「あ、サプライズとかは特にないからね!」

私は、サプライズが存在する文化圏にいなかったので、誕生日を祝うために会う=サプライズがある、という思考がなくて、わざわざそんな断りを入れられたことにビックリした。誘ってくれただけで嬉しいのに、と思ったが、そう言ったところで、「そっか!サプライズは用意してないけど、誘っただけで光琴はハッピーなんだね!ああ、この世は愛と祝福に満ちている!」とはならないし、言った方は、相手に喜びのハードルを下げさせてしまったことを申し訳なく思ってしまうだろう。そんな連鎖がそこかしこで起こっていくうちに、次第に、サプライズを「しない」という選択肢の方が狭められていく。社会の嫌なピタゴラスイッチを見せられている気分だ。

 

この世には、「予定されたありがとう」が存在する。非言語領域で何らかの行為を求め、相手がその通りに振舞ったら発せられるお礼である。例えば、電車の中、一つだけ空いてる席の前で、老人たちが聞こえよがしにする「あんたが座りなよ」「いやいやあんたが」っていう会話など。あれこそ、隣の人間に譲ってもらうことをやんわり強要していやしないか。譲れば、一応「ありがとう」とは言われるが、それは所詮予定調和のお礼である。「譲ってもらうつもりなんて一ミリもなかった」という無垢無垢(むくむく)の老人が、例外的にいないとは言わないが。

 

ともかく、サプライズというのは本来、「予定外のありがとう」を獲得するための行為のはずなのに、サプライズという文化が染み渡ると、「誕生日を祝ってくれるということは、即ち何かあるのだろう」という思考が自然に醸成されて、サプライズ後の「ありがとう」の質が変容してしまうのだ。そうなると、サプライズの後の「ありがとう」は、お年玉もらった子供とか、重たい荷物をヨロヨロ持っている女子とか、道を訪ね終わった後のstrangerとかの「ありがとう」と同じになる。

 

それでも、礼を言えるだけまだマシだ。「何かされるかもしれない」という期待を持ってしまうと、本当に何にもない時につらい。このサプライズの文化は、最早数少なくなってしまった純粋な驚きと引き換えに、不必要な悲しみというリスクを背負わせる。そして気の使えない奴は、無自覚に彼らを悲しみに突き落としてしまう。

 

だからといって、「サプライズをなくせ」なんて言うつもりはない。困ったものである、と思うだけだ。

 

サプライズの文化は、きっとこれからも肯定されていくだろう。これは、喜びを伴う行為の宿命とも言えるかもしれない。善意を下敷きにした行為を否定する人はいない。否定するのは、自分がその享受者になれない者だけである。

また、この文化が消えない背景として、否定する理由が錦の御旗にはなれないこともあると思う。

この世には、「正当化されない期待」が存在する。「合格しますように!」「病気が治りますように!」は大手をふって歩ける"期待"だが、「誕生日プレゼントに何か欲しい!」という"期待"は肩身が狭い。恐らく能動的な期待は肯定的に見られるが、受動的な期待が嫌われるのだ。「宝くじ当たると良いな」といった天から降る系を除けば、受動的な期待にははっきりとした対象がいて、その相手に具体的な行為を求めているのだから。

誕生日サプライズが引き起こす不幸は、この受動的な期待が起因している。だから、誕生日サプライズを否定する理由に言及すると、人が無意識に恥ずかしいと思っている領域に抵触してしまうことになる。だから、誕生日前後の「何かしてくれるかも」という期待は、世俗的な背景から自然に生まれてしまうものだけれども、日の目を見ることはない。胸に抱いていることを自覚することすら許されない感情なのだ。

 

こうして誕生日サプライズは、善意を下敷きにしている故に肯定され続け、ますます増長していく。即ちこの文化には、不毛な結末しか用意されていない。善意から始まった現象が何かを歪ませていくことは割りとあるが、これもまたその一例かもしれない。

 

皆さんも、誕生日の際はくれぐれも気を付けるように。ちなみに私の誕生日は、何もないままもうじき終わります。

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本当に今日は何もなかったので、何年か前のケーキの写真を探していたら日付が変わりました。

 

集団での会話は大繩である

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 一対一ならあまり感じないが、集団で会話するのは、どうしてあれ程に難しいのだろう。
私は、5人以上の会話が苦手だ。7人以上になると、もうまともに発言出来ない。特に飲み会の会話が難しい。あの乱れきった交感神経を刺激する面白いことなんて言えないし、言おうとしたところで、飲み会オモロ裁判でGuiltyの判決が下されるのみである。コミュニケーション能力にも色々種類があるが、知らない人に話し掛けるよりも、飲み会の盛り上げ役になる方が難しいと個人的には思う。

 そもそも、会話の性質が違うのだ。一対一の会話がキャッチボールなら、集団での会話は大繩だと思う。縄を回す人が一人か、或いは二人くらいいて、あとの人たちは次から次へと縄の中に入っていく。私はいつも、そのタイミングが掴めない。縄をぐるぐると目で追っているうちに、時間がどんどん経ってしまう。親切な人が「おいでよー」と誘ってくれて入れてもらえたとしても、足を引っかけてしまいそうで怖いのだ。

 キャッチボールなら出来るし、お喋りは好きな方だとも思う。ただ、自分以外の人々が仲良くしている集団にたじろいてしまうのだ。「皆が聞いているからには面白いことを言わなきゃ!」と思うくせに、面白いことを言うスキルがないので、黙ってしまう。
 「面白い人間」というのは大まかに二種類いる。その場の空気に合わせて「面白い発言」が出来る人間と、存在そのものが「面白い」人間。ズレを指摘できる人間と、そもそも性格がズレている人間だ。お笑いならば、前者がツッコミで後者がボケだ。まあ、お笑いのボケ芸人のズレはあくまで売り物なので、素の人格の話ではない。
ではこのボケとツッコミが、ピンで飲み会に出たとしたらどうだろう。ツッコミならば、周りの話に、熟年の柔道家が瓦を割っていくように次々と突っ込んで、笑いをかっさらうことだろう。スキルの高いボケならば、陶芸家が練り上げた陶器のように完璧なエピソードトークをすることで、ドッカンドッカンやるだろう。

 

 私が上手い会話が出来ないのは、ボケているくせに、ボケが持つべきスキルがないせいである。まず必要なのは、溢れるオモシロエピソードと巧みなトークスキルだろう。それにあともう一つ加えるとすれば、「ボケの操作性」だ。

 私が思うに、意識したボケというのは最強である。彼らの手の内にはオモシロの全てが握られており、指を握ったり開いたりするだけで、周りの笑い袋が地雷のように炸裂するのだ。一方、「天然」というのは悲しき存在である。奴らは、偶発的にしかオモシロを生み出すことが出来ない。彼らの生み出す笑いは神が作り給いし原石であるが、蓋然性が低いという不幸を内包する。

 要は、操作できないボケは、その場にいる人間に面白がってもらうことでしか存在出来ないのだ。周りの人間が面白さに気付かない限り、そやつはただのズレた人間である。ズレているから、フツーの会話に参加しようとしても、ぐっちゃぐちゃにして終わる。

 私が天然由来のボケなのか、それとも「平凡」と「アホ」のキメラなのかは判然としないが、一つ確かに言えることは、私は自分のズレを操作できないということだ。多分、このズレを変幻自在に出し入れできない限り、私がコミュニケーションお化けに生まれ変わることはない。

 

 だが困ったことに、私のコミュニケーション能力は、人体感知センサー搭載型である。受け入れてくれそうな集団を感知すれば自動的にオンになる一方、それが分からない環境では、いくらリモコンをガチガチやっても入らない。自動ドアが手動では開かないようなものだ。立っているのが、強盗ではなくただの客だと目で分かっていても、操作を変更できない。

 

 でも、大繩の会話も出来るようになりたいのだ。何なら、三重飛びのようなエピソードトークも出来るようになりたい。どうしたら、そんな面白い人間になれるのだろう? 面白ければ、初めての環境であろうと、自分以外の人々が仲の良い空間であっても、気軽に受け入れられることが出来るだろうに。

 だが残念なことに私は、既存の集団の会話に入ることが出来ないタチのようだ。全員が初めましての環境ならまだしも、既に形成されているコミュニティーに新参者として入る時、したくもないのに物怖じしてしまう。

 

 バイト先の塾も、そんな躊躇いのあった集団の一つだ。別に仲間外れにされていた訳ではなく、飲み会にも行ったし、泊まりでボードゲームをしたり、ボウリングに行ったこともある。だけど、私と皆よりも、私以外の皆の方が仲が良かったせいか、最後までこの集団の一員だという実感が持てなかった。私は中心メンバーにはおらず、いつも「~日に行くんだけど空いてる?」と誘われる方だった。スキー旅行にも誘われたけれど、輪の中に入る自信がなかったので、理由を付けて断ってしまった。

 別に、バイト先の人たちが悪かったわけではない。誘われたら嬉しかったし、もっと仲良くなりたいとも思っていた。だから、「どうして積極的に輪に入っていかなかったの?」と聞かれたら、答えられない。ただ、飲み会に行っても置物になってしまうことが分かりきっていた。楽しく話している人たちの横で、挟める言葉を見つけられないでいる自分がいた。何処か、皆と自分の距離は遠いような感覚があり、何をすればそれが埋まるのか分からなかった。
親しみを表す発言は、親しくなければ失礼に受け取られる。他の誰かが言えば笑って受け流されるような言葉も、私が言うと、失礼に取られるのではないかと思った。怖くて踏み込めないまま、距離は広がった。そのうち、私以外の人たちが、私を交えずに集まっていることを知った。

 何かを割り切って淡々とバイトをするようになり、遂に引退という送迎会の時。あっさりと終わるのだろうと思っていたが、思いがけず、後輩たちから口々に言われた。
「篠宮先輩がいなくなってしまうの、寂しいです!」
「またいつでも、この塾に遊びに来て下さいね!」
「待ってますから!」
 後輩たちは皆寂しそうな顔をしており、中には泣いている人もいた。「ありがとう」と言いながら、私は驚いていた。本当にこれは、私のために流された涙だろうか。もし――もしそうだとすれば、大して面白い発言など出来なかった私を、どうしてそんなに慕ってくれているのだろう。いつの間に、私のことを受け入れてくれていたのだろう。

 そういえば、私の話に「面白いですね」と笑ってくれたことはあった。「一緒に飲みに行きたいです」と話しかけてくれたことも。だが私は、タイミングが見つけられなくて、或いは忙しくて、或いは、どうせ上手く話せないからと思って、一度も誘ったことがなかった。

 

 もしかすると彼らは、私が大縄に入れずにたじろいていた横で、もっと小さい縄跳びで遊ぼうじゃないかと、私に呼び掛けてくれていたのだろうか。

 

 初めてそう気付かされ、猛烈な後悔に襲われた。もっと後輩と話をすれば良かった。自分から飲みに誘ったりもすれば良かった。そうすればいつかは人体感知センサーのロックが解除され、普通に話せる日が来ていたかもしれない。自分が組織の一員でないかのような実感も、味わわずに済んだかもしれない。

 

 それに最後まで気付けなかったことが悔しく、やるせなかった。
自分の存在する意義は、親切な他人に作ってもらうものではなく、自ら少しずつ積み上げていかねばならなかったのだ。

 

 社会人になっても、相変わらず集団での会話は苦手のままだ。少しはオジサンのユーモアにも慣れて、時折ドッカンドッカンを出来ることもあるが、やはり取り残されることはしばしばある。新人なので、あまり喋ると出しゃばっているようにも見えるし、かといって黙っていれば気を使われてしまう。その匙加減が分からなくて、また、やはり口を開けば失礼を働いてしまうのではと怖くて、一層喋れなくなってしまう。
そうして周りの賑わいに取り残されている時、私はこの塾のことをよく思い出す。その度に、胸の奥には濃いコーヒーのような後味が広がって切なくなる一方、目の前の大繩から眼を逸らさずに、ちゃんとタイミングを見て入ろうと思うのだ。