本当の教育者

 社会人にもなったということで、身辺整理をしていたら、恥ずかしいものが出てきた。小学生の時に書いた、漫画や作文やノートたちである。幼稚園くらいのものであれば、「あー、子供らしい。かわいかったねー」なんて話のネタにも出来るのだが、下手に自我が付き始めた頃に書いたものは、もうダメである。「小学生なのに、こんなものを書けていたなんて!」と思えるような「天才の片鱗」などなく、「何でこんなものを残しておいたんだ!」と怒りたくなるくらい、恥ずかしいものばかりである。当時、ノートに漫画を描いていたのだが、そのストーリーも結構酷くて、「万が一私が文壇に名を残すような作家になって、死後も語り継がれるくらいの業績を残しても、このノートが研究対象になってしまったら学者も困るだろうな」と思ったほどである。

 

 その中に、「自主学習ノート」というものを発掘した。どうやら、学校に提出する日記のようなものらしく、1日1ページ記入して、先生からのコメントをもらっている。転校生だったので、この自主学習ノートも小学校6年生の1年間だけだったにも関わらず、当時から書くことは好きだったおかげで、丸々3冊分はあった。コメントを書く先生も大変である。この前、小学校の教員をやっている友人の友人が、月に130時間残業したこともあるという話を聞いたばかりだったから、そのノートを見る目も違ってきた。

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 当時の担任は「よっしー」と呼ばれていた男の先生で、転校してきた私に、随分心配りをしてくれた。ノートのコメントも丁寧で、今見返しても、心を込めて書いてくれていたことが伝わるものだった。

私は、自分の書いたものにコメントを貰えるのが嬉しかったらしく、「先生も会議で忙しい日もあるから、コメントをきちんと書けない時もあるよ」と言われても、「コメントここから→(たくさん書いてね!)」なんて残してあるくらい、長文を期待していたようである。先生も先生で、「わがまま言わないの。先生は忙しいのです」なんて答えていて、ほほえましかった。

 

見返して思い出したのだが、私はそのノートに、あろうことか小説を書いていた。

 

 中身は、到底詳しく読めなかった。「こんなものを先生に見せていたのかー!」と悶絶して気が遠くなりそうだからである。それでもちらっと眼を通したところ、当時好きだった小説の影響がモロに出ていて、「ここはあのシーンを真似しているな」とか、「この展開は……」と思う描写が見つかって、いっそう目が当てられなくなった。

 一つの読み物としても未熟だった。そもそも小学生の書くファンタジーなんて、混迷を極めるものである。よく分からない造語とカタカナの人名が入り乱れているし、「グワッ」「ぎゃー!」など、セリフと効果音だけで説明しようとしていて、何が起こったのかよく分からなかったりする。先生も似たようなことは感じていたらしく、「人が多くなってしまって、誰が誰だか分からなくなってしまったよ」「前までの内容を忘れちゃったから、ざっとあらすじを付けてくれたらうれしいなあ……」と書き残されていた。ですよねですよね、おい、読者への配慮を欠いているようじゃ作家にはなれないぞ、と、過去の私に言ってやりたいくらいである。

 しかし、作者よりも読者に体力が必要とされるようなそんな話を、先生は根気よく読んでくれていたらしく、時には好意的なコメントも残してくれていた。「前に比べて、終わり方がうまくなりましたね。続きが気になります」とか、「今回はテンポが良くてとんとん読めました。物語には、時にはこういうところも必要なのかもしれませんね」など。私はノートに稚拙な挿絵を載せていたのだが、「絵がうまいですね。物語もそうですが、毎回さし絵も楽しみにしています」なんて褒めてもくれていて、嬉しいやら恥ずかしいやらだった。

 小学校を卒業する時、その自主学習ノートも終わりにしなければならなかった。私は、「あと7日間でがんばって完成させます」と言って話を無理やり終わらせた。最後、先生はいつもよりも長めにコメントを書いてくれていた。

 

 最後がハッピーエンドで良かったです。あなたの書く文章は独特で小学生ばなれしていて、読んでいて?なところもあったけど楽しく読めましたよ。

 これからの人生はもしかしたら大変なことの方が多いかもしれません。だけどあなたには「本」という最高のパートナーがいます。これからも本に助けられ、そして自分の書いた本で世の人を助けていってくださいね。

 いつかあなたの本が本屋さんに並ぶことを楽しみにしています。

 

 なつかしさが溢れて、思わず、ノートを抱きしめていた。

 仰る通り「?なところ」も多く、教師という立場の人がいなければ、誰からもすすんで読まれることのないような、下手な文章だった。

 今、自分で読み返してみても、当時の私が伝えたかったものがよく分からない。「未熟だなあ」と思うことはあっても、「面白いなあ」とは思わないし、「稚拙だなあ」と思っても、「上手いなあ」と思うことはない。そのレベルのものである。

 でも、そんな文章に貴重な時間を割いて読んでくれ、肯定してくれた先生のことを思うと、じんわりと幸せが広がった。

 先生も当然、夢を追うことの大変さは知っていた大人だっただろう。「君には無理だよ」と言わなかったのは、立場の弁えもあったのかもしれない。でも、それだけが本心でなかったことは、先生のコメントを読めば分かる。未熟な文章の中に良いところを探してくれ、ほんの少しの成長を褒めてくれていた。

 正直、どうひいき目で見ても、あの作品はプロの水準ではない。先生も実際、「君には才能が有りますね」とか、「君なら絶対にプロになれますよ」なんて根拠のない言葉は、何処にも書かなかった。

 それでも、子供の可能性を信じて、応援する姿勢を貫いてくれるのは、教師だなあ、と感じるのだ。

 否定しないのは難しくなくとも、肯定するのは難しい。大人になれば、相手との良好な関係性を壊さないために、面と向かって正直な思いを言う方が少なくなる。だから自然と、否定をしなくなるのだ。かといって、「応援していますよ」と親身になってくれたり、「きっとやれます」と他人の可能性を信じたりするのは、自尊心をつけてしまった大人には難しい。ほとんどの人が、「自分」という人間ではなく、「大人」という生き物になってしまうのだから。

 それも、自分の感性で才能を感じた相手でもない、才能のあるなしも分からないような、未熟な人間の成功を本気で祈ることが出来るのは、本当の教育者だけと思うのだ。

 そして、大人になってしまった私は、そういう教育者を失ってしまった。

 ただ自分の作品を読んでコメントをくれる人も、手放しに自分のことを褒めてくれる人はもういない。よく分からなくても、頑張って面白さを見つけ出して、応援してくれる人はもういない。

「つまらなくても読んでくれる人」を失ってしまった以上は、「面白いから読んでくれる人」を、探さなくてはいけないのだろう。

 少なくとも、そうして見返りを求められる大人になる前に、立派な「先生」に出会えていたことを感謝するばかりである。

「26歳、生きている意味が分からなくて死ぬ」

 私は、創作では自殺を持ち出さないことにしています。
 それは、語り尽くせない深遠なテーマであるにも関わらず、創作の世界では余りにも手垢が付きすぎているからです。「死んだ親友の記憶を抱える主人公」「恋人の自殺を巡る謎」こんな話は、市場に溢れかえっています。迂闊に創作に死を取り出すのは、実際には死に得ない彼らの存在を軽々しく扱ってしまうことになりますし、そうした多くの作品と一線を画すには、相当の技量、或いは、別の読み味が求められます。ですから少なくとも「死」についての深い実感なり考察なり、何かの手応えを得られない限り、私は自殺を扱った作品の筆を取る気はありません。
 だから私の先輩が、「私は26歳までに死ぬ」と宣言しなければ、こんなブログを書くこともなかったでしょう。

「26歳、生きている意味が分からなくて死ぬ」
 先輩によると、出自もよく分からない占いで、そう告げられたようです。どうして、そんなことを笑い飛ばさずに信じて、本気で実行するつもりなのか。この前、先輩に会いに行ったのも、その理由を確かめたかったからです。

 その前も、想像はしていました。
 先輩は結構な変わり者ですから、そのせいで嫌われたことも多かったのかもしれません。歯に絹着せぬ物言いで、人間関係に亀裂を走らせたこともあるのかもしれません。発達障害を抱えているから、生きにくさを感じる局面も多かったでしょう。或いは、家庭環境に問題が、という想像をすることも出来ます。

 でも、明るくてフットワークが軽く、冗談を飛ばす姿からは、世の中に悲観して自殺をするような姿が結びつかなかったのです。生きにくさを克服するには充分なくらいの容姿も賢さもあり、異性から愛された経験も少なくはなさそうです。クセは強い人ですけど、それが先輩の個性ですし、私はそこが良いとも思っています。

「生きていて良かったって、あんまり思ったことがない」

 ですから先輩の言ったこの言葉が、私にとっては衝撃でした。

「25まで生きていて、これがあったから生きていて良かったと感じたことがあまりない。だからこれからも、そんな、起こるか起こらないか分からないようなことを期待して、生きて、恥を晒したくない」

「死んだ後に、『もし生きてたらこんな良いことがありました』と言われたら『死ななきゃよかった』と思うかもしれないけど、起こるかも分からない良いことを信じて生きるのは嫌だ。希望は見ないタイプだから」

 私は何も言えませんでした。上滑りしない反論が、出てこなかったのです。
「何のために生きているのか」という問いだけならば、先輩は充分な答えを持っていたでしょう。
 安定した仕事のあること、趣味が豊富なこと、叶えたい目標があること。
 先輩にはそれがちゃんとあります。余程の上層階級の中に放り込まれでもしない限り、肩身の狭さを感じないくらいの大学と会社。そこに属しながら持ち続けている、小説家になりたいという夢。生きる意味がないと言う人の多くが、持ちたくても持てないそうした夢はしかし、先輩の生きる力の源泉にはならないようです。
 結局「何のために生きているのか」という問いの答えすら、何一つ、先輩の生きにくさを救ってはくれませんでした。

 死にたいって言って、周りの気を引きたいだけじゃないの、なんて言う人もいるかもしれません。どうせ本気じゃないよ、そんな奴のことなんて放っておきなよ、と。
でもきっと、その誰かは分かっていないのです。自分と相手の感覚がズレていることに。自分は見過ごせること、自分は当たり前に出来ることが出来ない別の誰かが、どんな風に感じるかということに。
 先輩は自分のことを、「右手左手ではなく、左手が二本生えてる右利き」と表現していました。ある程度のことならこなせても、特定のことになると途端に難しくなり、ミスを連発する。「右から生えた左手で、普通の人と同じ右腕の動きを求められている」感じで、右に生える左手なんて存在しないと思っている周りからは、「しっかりしていない」と思われる、と。
 人の話を聞いて要点をまとめ、忘れないでおくこと。世間で話題になっているものに、同じように関心を寄せること。納期に向かって計画を立てること。約束に遅れないこと、期限を守ること。
「社会人として当たり前」と世間が言うようなことをするのが、先輩にとっては難しいのだと思います。出来るだけ努力をしてみても、どうしようもなく疲れて、会社に行くだけでエネルギーを使い果たし、家に帰ったら充電が切れたように眠ってしまうと、先輩は話していました。

 「障害」という言葉に落とし込んで同情されることを、先輩は望んでいないでしょう。擁護されたいとも思っていないはずです。
 ただ、「違う」というだけで生きることがどれほど大変になるのかということに思いを馳せた時、苦いものが込み上げてきました。

 今まで想像していた「死」とは、いじめや借金などあらゆる不幸が目を塞いで、窒息したまま選んでしまうようなものでした。
 それ以外に、落とし穴のように口を開ける死を初めて目の前にした時、他者の生に何処まで干渉できるのかという問いの前で、私は立ち尽くしてしまいました。
 手放しに気持ちを伝えるだけで良いならば、生きていて欲しい、と言えるでしょう。
 先輩とこれからも話したいから。私にとっては、大切な友人だから。
 でもこの気持ちを押し付けるのが正しいことなのか、私には分かりません。
 先輩にとって「生きる」ということは、身体をあらゆる方向に曲げて、「普通」とラベルの付いた箱に無理やり押し込められる行為なのです。「たった48時間の自由を得るために平日5日間を全部犠牲にする生活」を続けることなのです。
 あの方の感じている深い絶望を、多少なりとも知ることが出来た分、死なないで欲しいという言葉が、如何にも虚しく感じられてしまいました。

「ありがとうと言われた回数よりも、申し訳なかったと頭を下げる回数の方が多い人生だった」

 そんなことを言われたら、これからは楽しいことがありますよなんて根拠のない言葉、口が裂けても言えないじゃないですか。

 結局私には、友人の生きにくさを砕くことは出来ませんでした。
 何も、一番近くにいたいとか、私のために生きて欲しいとか、そんなドラマのようなセリフを吐くつもりはありません。
 ただ、時折ご飯を食べながら楽しく時間を過ごせる、せめてそんな一友人として、あの人の支えになりたかった。
 仕事がつらくとも、休日にはあの子と会うからちょっと頑張ろうかなとか、そんな風に思ってもらえる人になりたかった。
 でも先輩にとっての私は、それくらいの価値も持てないのでしょう。私に人としての魅力が足りないせいなのか、先輩が、友人よりも孤独を愛する人であったためか。おそらくそのいずれもなのでしょう。
 私は、そんな存在になるには色々なものが足りませんでした。そのことを、深く反省したりもしましたが、私一人が何かを得たところで、果たして何かは変わったのでしょうか。
 
 私は人様の形をしただけの泥人形だ、と、先輩は言いました。
 先輩は、先輩自身が絶望しているほどどうしようもない人間ではないと、私が言ったところで、「そうかな」と首を傾げられるだけでしょう。
 生きにくさを抱えていても、この世の楽しい部分に目を向ければ、生きられるのではないでしょうか――そう言っても、「自分を変えるくらいなら死ぬ方が楽」と、言われてしまうのでしょう。
 生きてください――そう伝えることは、生きにくさを我慢し続けることを強いてしまうのでしょう。

 友人として、私が出来ることは何なのでしょうか。

 現在25歳の先輩の決断に介入することは、私には出来ません。だから先輩が悲しい道を選んだとしたら、せめてこの世に先輩という人間がいたことを、いつまでも覚えておこうと思います。でももし、この世に残ることを選んでくれたなら、またいつものように連絡を取って、一緒にご飯に行くでしょう。

沖縄と小説と変な人たち

 一月最後の週で、高校の文藝部の人たちと沖縄に合宿に行ってきた。
 私のいない飲み会の場で、「もう一回高校の時みたいに合宿しようよ!」となったらしい。いなかったので伝聞ですが。合宿に来たのは九人、女四の男六である。全体の人数が十四人であることを考えたら割と集まりが良い方だ。とはいえ私の同期はテストやら卒論やらで一人も来なかったので、登場人物は全員先輩である。学生より社会人の方が暇というのもどうなんだ。


 各自取った飛行機はバラバラだったので、私は同じ便に乗る予定のT先輩と待ち合わせをした。本当は三人が同じ便に乗る予定だったのだが、一人が「七千円を無駄にする寝坊」をかましたので、二人で行くことにしたのだ。
 ビンボー大学生なので、私たちは、預け荷物なしのLCCという「極限までの節約」で乗るつもりだった。だが、バニラエアの「手荷物二つで七キロ以内」という制限を守るあまり、ポケットに財布やら文庫本やらヘアアイロンやらを突っ込んだせいで、コートは鎧のように重たくなった。ヘアアイロンのコードがポケットから飛び出しているのを見て、さぞかしバカな大学生だと思われたことだろう。大変恥ずかしかったので、社会人になったらちゃんとお金を払おうと思う。

 そんなこんなで沖縄に着いた後は、沖縄に住んでいるN先輩と、一足早く着いていた先輩三人が出迎えに来てくれた。皆で車に乗ろうとしたのだが、T先輩がドアの開け方も分からないというので、一同は唖然とした。
「馬でしか移動したことなかったの?」
 別の先輩の一言で場に笑いが起こった。ちなみにT先輩は窓の開け方も分からず「どこ押せばいいの?」と聞いていたし、シートベルトも脇の下にくぐらせて固定していたのだから、本当に文明に触れたことがなかったのかもしれない。
 車で移動した先は、S先輩の「此処の沖縄そばが一番うまい」と一押しする沖縄そば屋だった。味の違いの分からない一同は、したり顔で「ほお~」と言いながら啜っていたが、何しろ味の違いが分からないので、それ以上の感想はなかった。
 机の上に乗っているソースのようなものを手に取ったT先輩が、「これ何?」と沖縄住みのN先輩に聞いた。唐辛子で出来た、味付け用の辛い調味料らしい。
「ほお~」
 T先輩は分かったような顔で、手を扇のようにパタパタして匂いを嗅いだ。
「扱いがまるで劇薬だな」
 S先輩が突っ込む。「理科の実験でやるやつですね」私も言った。わははってなった後、唐辛子ソースを持ったT先輩が沖縄そばにそれを掛けようとするので、すかさずT2先輩が聞く。
「箸を漏斗の代わりにしなくて良いの?」
 その一言でまたわらわらっと一同は盛り上がった。沖縄そばを食べ終えた後は、万座毛という絶壁の崖に向かった。

 車は大人数だったから二台の分乗だったのだが、女子だけしかいない車では当然の如く「女子だけでしか出来ない話しようよ」となり、浮いた話などで盛り上がった。ちなみに後で聞いたら、向こうの車でも「男子だけでしか出来ない話しようぜ」となったらしいから、人間みな考えることは一緒である。

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万座毛


 万座毛は本当にただの崖だった。女子三人で「女の子っぽい写真を撮ろう」となったものの、「女の子っぽいポーズってなんだ……?」と全員首を傾げてしまった。
「ミスコンみたいな写真にしようよ」
「ミスコンの人たちって、同じ方向むいて前の人の肩に手を置きがちだよね」
「あ、分かります! それにしましょうよ」
私は大いに頷いたのだが、「ミスコンあるある」が伝わらない人がいたため、写真は小学生の「マジの前ならえ」になってしまった。恥ずかしいので載せないが。

 万座毛の後、「相場で計算すると七千円の寝坊」をやらかした先輩と合流し、スーパーで夕飯を買い出しした。ホテルはテラーハウスのような素敵なところで、二階を寝室、一階がリビングとダイニングといったところの一軒家のようだった。

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これが一階。奥がキッチンになっている

 

 目の前はすぐ海だ。海では石切りの回数を競い合ったり、夕陽を背景にCDのジャケットっぽい写真を撮ってみたりしているうちに暗くなっていった。帰る途中、「将来は此処をトキワ荘のようにして生活してみたいもんだ」と先輩の一人が言った。

 

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ドアを開けるとこんな感じ

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翌日の昼。良く晴れていたので綺麗に撮れた



 夕飯のヤギ刺とタコライスを食べている途中では、「なんか音楽かけようぜ」という空気になったものの、白羽の矢が立った先輩はセレクトセンスが絶望的にないのか、「ゴンドラ曲 @ヴェネツィア」を流しだした。サンタルチアと沖縄の共通点は、海辺ということでしかない。結局サンタルチアを背景に、一同はテラーハウスのような一軒家でもくもくとヤギ刺しを口に運んだ。シュールである。

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タコライスとヤギ刺し

 

 こんな文藝部だが、合評会はみな本気だ。文藝部で唯一自慢できるものがあるとしたら、合評会のレベルだと思う。先輩たちの指摘は鋭いし、「俺にはハマらなかったけど、切り口としては大正解」といった、主観を除いた評価もしてくれたりする。私は皆から久々に合評をされると思ってテンションが上がっていたので、一人で五作品もグーグルドライブにあげていた。
「用意、セット」
 その掛け声で、皆が口に笛ラムネを設置する。高校の時からの伝統で、合評会は笛ラムネをひゅいーっと吹いてから始まることとなっている。完全に無意味な伝統である。
この人たちは新入生への部活紹介の時も、部長が概要を説明している後ろで、カラーバットと丸めたガムテープで野球をやっていたものだ。想像してもらいたい。「私たち文藝部は、二月に一度部誌を発行し……」と部長がマイクで喋っている後ろの舞台で、無言の十人がカラーバットを手に野球をしているのである。大抵の新入生はドン引きなので、文藝部には、その部活紹介で「入りたい」と思う変な奴しか集まらない。なので、こういう変な伝統がたくさんあるのだ。

ともあれ合評会の幕開けである。今回のお題は「ラブフェスタ」。全員が恋愛をお題に小説を書くというもので、一番胸きゅんだった作品には景品がある。景品を買ったのは私だが、ラブフェスタっぽく「ギフトチケット ペアクルーズ券」をセレクトした。たとえ恋人のいない人に渡ったとしても、「誰と行くの? 誰と行くの?」と全員で寄ってたかってからかえそうだと思ったからである。
(結局彼女のいる先輩の手に渡ったので、平和な形に収まった)
「面白そうだから」それだけの理由で全員が匿名で作品を投稿することにしていたので、作者を公開した時に場が騒然となることもあった。「絶対これ女が書いたと思ったのに!」という悲鳴混じりの驚嘆が上がったりもした。私は五作品もアップしているので、さぞかし皆を攪乱できているだろうと期待していたのだが、「所々に篠宮節が出ている」という理由で看破されていた。先輩はさすが鋭い。
 合評会は三時でお開きになり、それから元気な人たちだけで五時までボードゲームをやった。元気な人といえども所詮は文藝部なので、皆へとへとに疲れた。そして寝た。

 

 二日目以降はダイジェストで送ろうと思う。二日目は、お祭り期間の米軍基地に入ったりした。普段はもちろん、入ることは出来ない。オリオンビール工場に四時に予約しているというのに、ターザンロープで遊んでいたせいで、最後は走って車に向かわなければならなくなった。
 ステージでハルマゲドンのような曲が流れる中、髪を風に攫われながら疾走する男女たち。「これが青春か」一人が呟いた。もしこれが映画なら格好いいのだろうが、文藝部の体力で頑張ろうとしたばかりに、ぜいぜい息を切らしながら「ごれが、せ、青春、か……ハアハア」と苦しげな実況コメントになっただけだった。結局オリオンビール工場の予約には間に合わなかったので、動物園で鳥にエサをあげることになった。今までの学生生活で教え込まれたはずの「五分前行動」が身についていない人たちである。修学旅行にいたら一番迷惑をかけるタイプじゃないか、と思ったが、ターザンロープで一番はしゃいでいたのは私なので、人のことは言えない。

 二日目の合評会では、途中でS先輩が「お前……適当に書いてるとか言うなよ!」というアツい台詞を別の先輩に吐き捨て、剣呑になった。言い争っているうちにS先輩が相手の先輩の胸倉を掴み、往復ビンタをした。負けじと相手の先輩も往復ビンタをかます。さながら二人は往復ビンタ会場のリングの中のボクサーのようであった。そして互いの頬を引っぱたきながら、ゴングがなるまで二人は汗を飛ば続けていた。……というのは私のでまかせであるが、創作について激論を交わしたことだけは事実である。

 私として嬉しかったのは、先輩方から内定祝いのサプライズを貰ったことだ。
「え、何ですか、中身」
 開けてみると、名前入りの木のUSBメモリだった。隠れたメッセージ――〈これで作品を書くのだ〉――に気付かない私ではない。木のUSBということは、この風合いが変わる頃になっても、使い続けろという意味なのだろう。それはさすがに深読みだろうけど、「プレゼント おすすめ」の検索結果の上位に出てきただけかもしれないけど、私はそう思った。
 内定者は椅子の上に立って一言を言うことになったので、青春の雰囲気に浮かされていた私は、堂々と宣言してしまった。
「私は、これからも本気で作家を目指します。皆さま今後とも、ご協力をよろしくお願いいたします」
 おお、というどよめき。私が作家を目指していることは、今まで全員を前にして言ったことはなかったので、知らない人がほとんどだったのだ。
「選挙演説みたいだな」と先輩から言われたので、「近隣の皆さま、篠宮深琴、篠宮深琴を、どうかよろしく、お願いいたします」と色々な方向に手を挙げて挨拶をした。
「マニュフェストはしっかり守れよ!」
 ヤジが飛んできた。こうして二日目の夜は終わった。
 
「篠宮さんって、爆弾みたいだよね」
 頭に残っているのは、飛行場でK先輩に言われたこの言葉だ。どういう意味なんですか、と騒いだが、「褒めてる褒めてる」と言われたので、都合よく受け取っておくことにした。爆弾、という言葉の強さを、何度も反芻した。
 作家になりたい――この宣言に思うところがあったのか、他の先輩にも変化があった。
 一番は、小説家を目指していたものの、事情があって一旦創作をやめてしまったというT2先輩なのではと勝手に思う。知り合いがいたら避けるような先輩が、帰りの電車のルートを私に合わせてくれて、「篠宮さんて、小説で挫折したこととかないの?」とか、「いつから書き始めているんだっけ?」とか質問してきてくれた。帰りの電車で創作の話をしているうち、先輩の眼が生き生きし始めているのを感じて、とても嬉しくなった。
 私の長編を書評してくれたり、「篠宮さんはこれを読んだ方が良い」と言って気前よく本を貸してくれたりするS先輩もそうだ。二年間小説を書いていないと言っていたけれど、ラブフェスタでは本気で作品を用意してきた。別に私を意識した訳ではないかもしれないけど、もしそうだったら良いなと思う。
 脚本家を目指していると言っていたT3先輩(苗字にTが付く人が四人もいるので紛らわしい)も、「篠宮さん見てたら、俺ももっと書きたくなってきた」と言ってくれた。私の言葉が、先輩たちの止まっていた時間を動かせたのだとしたら、もう一度夢に向かう元気を与えられたとしたら、素敵だと思う。
 趣味で創作をやるのも良い。夢を追いかけるのも良い。目指す人を応援するのでも良い。この合宿は、創作に向ける色々なあり方を見せてくれた。そして私はこの合宿で、この人たちと出会えて良かったなあと改めて感じてしまった。

 文藝部沖縄合宿。最高であった。

 

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特に意味はないが鳥

 

山の静寂をかき破る、命

 山の清涼感は、窓を閉じていても何処からか滑り込んでくるのだろうか。三角屋根の山荘の中も、すんとした気配が満ちていた。木目のはっきりとしたフローリングは素足では冷たいが、暖房の熱を帯びた居心地の良い温もりは、ステンドグラスの光の差し込む吹き抜けの二階まで漂っている。外でさわさわと揺れている木々は色とりどりの模様に透かされて、床の上で影絵のように踊っていた。
 山奥には、風の音と、時折車が通る音が遠くに聞こえるほかは、何もなかった。原稿用紙の上を滑っていた万年筆が、立ち止まるようにしばらく宙に浮くと、本当の静謐が身に染みる。身体中の全てが空になり、山に在る一つの命に返っていくようだった。机の縁に手を伸ばし、椅子を傾ける。ぎっ、と木が軋んだが、それ以外の音は絨毯に吸い込まれてしまった。私は澄んだ空気を吸うと、また小説を書き始めた。

 そうしてしばらく筆を進めた頃だろうか。裏返して乗せる紙の厚みが増えてきた頃、ぶうぅううん……という羽音が耳に付いた。
 それは時折、疲れたように休んでは、またぶんぶぅんと鳴り始める。外から一時的に窓の近くに来たのだろうと、無視して執筆を続ける。だが、羽音は一向に止まない。家の中に入ってしまったのではと眉を顰め、音のするあたりに近寄ったものの、斜めに垂れ下がった天井にも、木目の映える壁にも床にも、動き回る染みは見当たらなかった。他の音がない分、羽音は一層耳に付く。不快なので、耳にイヤホンを差し込んだ。それからしばらく机に向かっていたが、CDが一枚終わってイヤホンを外しても、まだ鳴っている。一体何処にいるのかと、立ち上がってもう一度よく探してみたら、はっとした。虫は、外にいるのではない。窓と網戸の間で、出れずにもがいているのだ。

 ステンドグラスをよく見ると、窓と網戸の間にある数センチほどの隙間に、同じ種類の虫が五匹も張り付いているのだった。黒く、とんぼにも似た形をしている。ある物は網戸に足を掛け、ある者は窓の突起を歩き回っている。そして、時折羽音を立ててもがきまわっては、疲れたように窓に沿って歩く。一体どうして締め切られたこの隙間に入り込んでしまったのかは分からないが、彼らはみな、ここから出たいと主張していた。
いや、と思い直す。全員ではない。むしろしきりに動きまわっているのは三匹ほどで、ほかは全く動かないのだった。諦めてしまったのか、もう死んでいるのかは分からない。
 学習性無力感、という用語を思い出した。心理学のとある実験で、マウスの行動とは何も関係なしに電流を流したり止めたりし続けていると、次第にマウスは、自分の行動が何の結果も齎さないと学習する。その状態で水に放り込むと、ここで足掻いても無意味だと思うのか、三分の二のマウスは泳ぎもせずに諦めてしまうのだ。
動かない虫たちもそうなのかもしれない。もう足掻いても何処にも行かれないと知り、無駄な消耗はやめて、静かに死を待っている。食糧の手に入らない環境で、その判断は賢明なのかもしれない。
 しかし何度も諦めずに動きまわっている虫からは、生への渇望が、はっとするほど強く感じられた。生きたい、諦めたくない、という叫びが、生々しい声の形で空気を震わせていた。先ほどは不快でたまらなかった羽音が、今では悲鳴のようだった。

 私の力では容易に開ける窓が、目の前にある。

 開けたい、と思う。彼らの努力が報われて欲しい。私は、彼らにとって神にも等しい存在だ。ほんの少し、御手を動かせば、彼らを絶望からも苦しみからも救える。再び、彼らに自由な天地を与えることが出来る。
 しかし、と同時に、人である私は思う。この窓を開けてしまえば、この虫たちは家の中に入ってしまうだろう。二階だから、ベランダから回り込むことも出来ない。彼らを解放するには、家の中に招き入れる他ないのだ。その後、飛び回る虫たちを窓の近くに誘き寄せ、また外へと解放するのは相当の難儀だ。その間にずっと窓を開け放っていれば、また別の虫が入ってくるかもしれない。私は静かに小説を書いていたい。窓を開ければ、その穏やかな時間は失われてしまうだろう。
 だが、躊躇いを感じてもいた。ここで何もしないということは、虫たちをこの狭い牢獄に閉じ込めるということだ。虫を家に入れたくないという、利己的で些細な事情から、彼らの残りの生は握りつぶされる。
 その残酷性に気付いていながら、窓に手をかけようともしない自分に気付いて、ぞっとした。

 人はこんなに簡単に、他の命を見殺しに出来る。

 私は人よりも、環境や動物への関心は高い方だ。なのに、生態系を壊す活動には感じる憤りの矛先を、自身に向けられないというのか。環境を破壊する人々には眉を顰めたのに、目の前の命が死んでいくのを見なかったふりが出来るのか。
 公の単位と私的な単位で、感じることはこうもズレてしまう。
 そして当事者にこそ宿る残酷性というものは、こんな小さな隙間からも萌芽するのだ。それはまるで、正義というコンクリートで固められた心の割れ目から吹き出した、青々とした若葉のようでもあった。

 自分にとっての些細な事情が、他のものの生存を脅かす脅威に変わるさまを眼前にした頭の芯が、急速に冷えていく。食べる以外の目的で他の命を奪える人は、己の生を豊かにするためなら、何処までも冷淡になれるのだ。生き物との共存を唱える一方で、己の生を阻害するものは、躊躇いなくその対象から除けるのだ。
自分もまたその種族の一部であることを知り、ばっと頭を抱えた。胸の痛みが、喉元までせりあがってくる。

 残酷な人々を違う次元に切り分け、そうすることで保っていた己の潔白は、日常の一角で、こんなにも脆く崩れゆく。

篠宮光琴とは何者ぞ

 順番が前後してしまいますが、ブログを始めるに際して、私の自己紹介でもしておきたいと思います。

 とはいえ、まだ、語れるほどの何者かになっておりません。言えるのは、生年月日と好きな王朝くらいでしょうか。ちなみに初対面の集団の中で「大学と趣味と好きな王朝教えて」と言うと、場の『苦笑』と『戸惑い』が一挙に手中に収まります。

 

 篠宮光琴、1997年2月14日生まれ。好きな王朝は漢と魏呉蜀(三国志)、そしてローマです。勉強中なので、これからたくさん増えていくでしょう。増えるくらい勉強しなければと思っています。
小説家志望です。今年の三月に卒業して社会人になります。

 「篠宮光琴」というペンネームは、「篠突ク宮ニテ光琴ヲ聞ク」という漢詩の題名のようなものをイメージして付けました。ざああ……と激しく雨の降る王宮の奥の暗がりから、ぼんやりと光を放つ琴の音色が聞こえる……そんな場面です。名前が物語を切り取っているのって素敵だと思って名付けました。
宮の奥底で奏でていくうちに、人々の語り草となり、伝説となるような、そんな存在になりたいです。

 今年にやると決めたことは三つ文学賞に応募すること、そして今年の抱負は、そのいずれかでデビューをすることです。二つ引っかかってくれれば、二社の出版社で、全てならば三社でデビューを果たすことになります。全部違う作品を出しますので、一応ルール違反ではないと思っています。合計すると35万字ほど書かなければならないハードスケジュールですが、人気作家になるためにはこれくらいの覚悟がなければやっていけないのかなとも思っています。何処かの賞に落ちた作品を別の賞に使いまわす方もいますが、私はそんなことは己のプライドにかけてしません。
 そうしたくなる気持ちは分かります。確かに長編一本書くのは大変ですし、何とか苦労して作り上げた作品が落選すれば、下読みが悪いと言いたくもなってしまうでしょう。
 でも、次の作品を書くのを億劫がっているうちは、プロとして到底やっていけないのではないかとも、同時に思うのです。下読みさんに流し読みをされないような、思わずはっと目を見張るような作品を書いてみせるという気概や、前に向かう強い意識、大変な「書く」という作業に向き合える人だけが、作家として生き残れるのではないでしょうか。何者にもなっていない私ですが、意識だけでもせめてプロと同等のものを持ちたいという信念があるので、使いまわしはしないつもりです。
基本的に私は、自分がどうあるべきかということと他人のあり方を分けて考えるたちですので、この発言にも特に他意はありません。そもそも他人の行動を制限する権限なんて私には全くありませんので、ただの大学生の独り決意表明です。


 
 2017年にファンタジーノベル大賞の最終選考に落ちたことから、私の人生で何かが大きく変わりました。
大学三年生の10月、就職活動をそろそろ始めようかという時期と重なったこともあり、どう生きるかということに否が応でも向き合わざるを得なくなりました。
社会人にならないという選択肢は選び取る気があまりなかったので、どの職業に就こうかという所からなのですが、全く途方に暮れてしまいました。学生の運営する就活支援団体の活動で、ビジネスコンテストをやってみたりもしましたが、かなりストレスだったのを覚えています。性格的にストレスは感じにくい方ですが、あの時は圧し潰されそうでした。働くということに向いていないのではないかと悩み、重たくなった頭を抱え込みました。

 好奇心の幅はかなり広い方ではありますが、私は、ビジネスというものに関しては絶望的に興味が持てません。だからどうしても企業を選ぶ基準が、作家としていかに役立つかということになってしまうのですが、興味を持ったところはまた絶望的に忙しい。執筆の時間が取れる方が良いし、だったらゆったりしていれば良いかというと、それはネタになる学びが少なく物足りないかも、と思ってしまう。執筆の時間が取れるのと、身を削ってでも人生経験を積むこと、どちらが作家になるためには良いのか、そして、自分自身がどちらに行きたいのか分からなくて悩みました。

 小説新潮に載った書評のうち、私の心に焼印のように鮮やかに刻まれたのは、「人生経験が足りない」という言葉でした。
 技術的に未熟な部分なら、努力によって向上させることが出来ます。しかし、年齢から来る習熟の低さだけは、どう足掻いたら埋められるのか、私には見当もつきません。
だから、「何としてでも人生経験を積まなければ!」という使命感は、あの時から私の身体を火だるまのように燃やし続けていました。「人生経験なんて自然に積まれるものだよ」と友人から言われても、私は何かを自覚的にやっておかなければ気が済まなかったのです。

 そんな風に紆余曲折した就職活動ですが、幸い、自分の興味もそこそこ持て、執筆の時間もまあまあ確保できそうなところを見つけられたため、そこに決めました。仕事内容にも貢献出来たら良いけれども、それは正直「ついで」で、自分の見聞を広めたいというのが本心です。内定先に迷惑が掛かってもいけないので、業界を公表するのは、作家で大成して辞めた後、気が向いたらにしようかと思っています。

 ちなみに2017年ファンタジーノベル大賞の最終候補になった者のうち、日の目を見ていない者は私しかおりません。大賞受賞者はもちろんのこと、他の二人もどうやら本を出しているようです。
 今年、三つも文学賞を出す理由の一つはそこにもあります。同時に肩を並べた人たちが、どんどん私を置いていく。他の人は進んでいるのに、私だけスタートラインにも立てていないまま。若い人のデビューの話や活躍の様子を聞くたびに、私の心は窒息にも似た焦りでかき乱されます。
 私は、デビューしない訳にはいかないのです。絶対に作家になりたいのです。

 就職活動をする前は、多分作家なんだろうな、と思っていました。ファンタジーノベル大賞の最終候補になる前は、何となく書くことが楽しかった。
 でもその分岐点の前は、他の何かをしている時も同じように、いやもっと楽しかったのです。小説を書くことよりも、ユーチューブを見たり、友達と出かけたりする方に時間を割いていた。遊んできた後は、正直疲れて書く気になんてなれなかった。
 転機は約一年前――カンボジアマングローブの植林ボランティアをしていたあの日、各国のボランティアたちと遅くまで盛り上がったあの夜、父親からの「新潮社の人から電話が来たよ」という連絡を見た、あの時です。あの時から、私の中の何かは、大きく変わってしまいました。
 それはまるで、閉じていた蓋が開いたかのようでした。世界の見え方が全く変わってしまうほど、己を突き動かす強い思いというものを、私は初めて知りました。日常の全てを小説の材料として見、自分の時間の全てを、小説のために捧げたいと思いました。

 あの日から、作家になりたいという思いを、一日でも感じない日はなくなりました。

 もちろん最終候補になる前も作家になりたいと思っておりましたが、今の私の思いとは次元がまるで違うのです。恋愛でいうならば、【恋が愛に変わった瞬間】とでもいうのでしょうか。「好き」ということは変わりません。もちろんかつてのようにワクワクも感じているし、心が浮き立つようになることもあります。でも今、小説のことを考えている時に根底に感じるのは、最早身体の一部として溶けあっているような、深い安心なのです。

 そして就職活動を通して、散々業界を見回して、作家以外の選択肢を検討して、それでも、私が自分の全部を投じて取り組めるのはこの職業しかないと確信してしまった不幸な大学生は、その光だけを目指して進み続けることしか出来ないようです。

 報われるかどうかは分かりませんが、私の中でもう愛に変わってしまった思いが消えてしまうことは、おそらくないでしょう。

ブログを始めます。

 ブログを始めることにした。

  本当はブログなんか始めたくなかった。作品の向こう側に作者が透けるのは個人的に嫌だなと思っていたからだ。だが、私の作品は出版もされていなければネットで公開もしていない。うっかり忘れていたけど、そういえば読者なんかまだ何処にもいないじゃないか。そう思ったら、誰もいないのに遠慮してどうすんだ、と思い直した。

 何より作家のエッセイに憧れたので、ちょっと真似したくなってしまった、というのが一番の理由だ。上橋菜穂子さんの『物語ること、生きること』を読んだ時は、小説を書く自分を肯定してもらえたような気持ちになり、涙を流すほど感動した。あと強烈すぎて忘れられないのは、乙一さんの『小生物語』だ。日常の出来事を誇張した嘘日記なのだが、私はこれが好きすぎて、高校の当時はツイッターの一人称を全部「小生」にした程だった。そうしたら友人からのあだ名も「小生」になり、「おい小生!」と呼ばれるなど、「小生」は一人称でありながら三人称でもあり、一般名詞でありながら固有名詞化されるという、複合的機能を孕む単語へと進化を遂げてしまった。しまじろうが「わお!」と言うなら、「小生」の染色体も「わお!」と言うことだろう。
 ともあれ、そういう理由でブログを始めることにした。

 

 最初に宣言しておくと、キャラがすごい勢いでぶれると思われる。もうこの人は残像が見えるくらいのスピードで反復横跳びでもしているのではないかと思う方もいるのではないだろうか。ほぼ間違いなく「本当に同一人物が書いているの?」と多くの人から疑問視されると思うので、初めに言っておこう。全て同一人物である。
 まあ「多くの人」って言えるくらいの人に読んで貰えるかは甚だ疑問だが、私の計画では、受賞するや否やたちまちに注目が集まり、私が一歩街に繰り出せば、私の姿を見つけた人は手持ちのバッグから小っちゃい正方形みたいな紙吹雪をたくさん撒いてくれ、足を踏み出そうとすれば、何処からともなく現れた細長くて赤いカーペットが巻物みたいにダラダララ~~と引かれ、私の進行方向をカーナビのように案内してくれるに違いないので、きっとこのブログも多くの人の目に触れるだろう。一旦、そういうことにしておいてほしい。

 

 そういうわけで、どうも宜しくお願い致します。