誕生日サプライズの記事の後日談と、好きなものについてのとりとめもない日記

昨日は、誕生日サプライズがいかに弊害をもたらすかという記事を書いた。

 

https://mikotoshinomiya.hatenablog.com/entry/2020/02/15/001000

 

この記事の後日談なのだが、15日、私の家族と祖母とで集まって誕生会をした後、9時くらいに解散して、その後は友人の家に向かった。友人は男三人でシェアハウスをしており、月に一回、その古民家風の家で読書会を開催している。今月は誕生日会と重なってしまったが、私はアホなので「その後行けばいいじゃん!」と思って向かったのだ。行ってみたら、本の話をする時間はとっくに終わっていてGantz鑑賞会になっていたのだが、そこでいきなり電気が消え、チョコレートケーキが運ばれてきたのだ。

 

「光琴誕生日おめでとうー!!!」

 

えっ、何これ。ホワイトチョコレートで作られたプレートには、私の渾名が入っている。得意気な友人たちの顔が、ロウソクの光で照らされていた。

えっ、まさか私のために⁉ 全ての感情が、蓋を開けたスパークリングワインみたいになった。じゅわわわわ~。感動が、泡のように溢れ出していく。ついでに感激のショック療法で、日頃の仕事のストレスも全部ぶっとんだ。

 

結論から言うと、誕生日サプライズは良いものである。こんな単純な思考の持ち主で申し訳ないけど、やっぱり自分がされてみると嬉しい。こんなに幸せなことがあっていいのか。何なんだ「予定調和のありがとう」って。いつまでもサプライズを驚けるくらいの純粋な心と、多すぎない友人がいれば良いだけである。

 

こういう場で自分の幸せについて話すのは良くないだろうが、誕生日サプライズについてはちょっと考えが変わったかもしれない。正直、この幸せがあるのなら、悲しみを背負うリスクを負っても構わぬ~! と思ってしまった。やはり持つべきものは友人であり、恋人なんていなくても構わぬ~! とも思った。性格の合わない恋人と、気の合う友人なら、欲しいのは断然後者である。

いや、訂正。やはり恋人は欲しい。自分の好きな人間と特別な関係になれるのは、純粋に素敵である。まあ好きな人間との関係の最適解が「恋人」であるとは限らないし、「特別な友人」というのもまた存在すると思っているが、恋人は恋人でたぶん良いものだ。それに彼氏さえいれば、職場のセクハラ人間を一発で撃退出来て便利なのになとも思う。「私には彼氏がいませんが、あなたには興味がありません」ということを、相手を傷つけずに言うのは難しい。それが出来る人間がいたら、よほど誠実か、何らかの形であなたのことを大切に思っている証拠なので、自分の告白が断られた一時の動揺なんてすっとばして、末永く仲良くするべきである。

セクハラ人間には私なりに言葉を尽くしたが、諦めてくれたかは分からない。まあそれよりも、同じ課の女の上司に嫌われていることの方が困っており、正直、セクハラ人間は困り事の二番手である。ちなみに前にブログで書いた上司は、私とは反りが合わないものの尊敬できる人なのだが、この上司は仕事と私情を分けて考えることが出来ないため、嫌われることによって仕事に差し支えを生じさせてしまう。無自覚の内に嫌われる理由を私が作ってしまったのか、人が話している最中にコピー機に伝票を取りに行くほど忙しいのか知らないが、私が話し掛けると、嫌いなものを無理やり食べさせられているような顔をするのだ。話し掛けても「忙しいので」と、要件を言う前に打ち切られてしまうし、大量に印刷にかけなければならない資料を会議の直前になるまで貰えなかったりして、非常に困る。

11月あたりから、業務量に関することや仕事内容で生じるストレス、こういう諸々のストレス、自己肯定感の下落が原因で、仕事をしているとじんましんが出るようになってしまった。下腹部から太腿に至るまでの広範囲で、かきむしるのを我慢できないほどである。しばしばトイレに立って全身をかきむしっているのだが、そうしている間にも順調に仕事は溜まっていく。ベルトコンベアーで流れてくる弁当に、ひたすら梅干しを詰め続ける仕事と一緒だ。私がいない間にも、ベルトコンベアーはひたすら流れていき、私がいなかったところの弁当には梅干しが入れられなくなるのである。ところで、あのシステム、一体どうなっているのだろう。あそこで働いている人は、仕事中トイレにも行けないのだろうか。或いは、座りながら作業できるように、便座に座りながら作業しているのだろうか。疑問である。

 

ところで、先日書いた記事を読み返してみて、ひねくれてるな~と思った。こういうひねくれめの記事を書いたのは、尊敬するライターの影響かもしれない。その人のことはすごく尊敬しているし好きなのだけど、性格がひねくれていて、私はその人へのリスペクトが過ぎるあまり、その性格の歪んだところまで自分の中に取り入れようとしてしまっている。この書き方では、「お前は本当にその人のことを尊敬しているのか?」と思われてしまいそうだが、そのひねくれている部分も含めて面白いのだ。ファンである。

私は、本当に「すごい!」と思う人間に出会った時、何でもその人の真似をしたくなってしまう。この人ならこう考えるのかな? とか、この人ならこんなことするかな? とか。まあそうして真似したくなってしまう人間が複数いて、その人間たちの要素と私の下地のちゃんぽんが現在の私なので、結果的に私は誰でもない。尊敬する人が一人しかいなかったら、ただの劣化コピーになっていたのだろうか。

 

 この尊敬する人について色々書くと、エゴサーチでこのブログに辿り着かれてしまいそうなので、今はしない。恥ずかしいし。とはいえ、自分が一生その人に認識されずに終わるのも虚しすぎる。とはいえ、認識されるからには、何らかの部分で「この人はいいな」と思われたい。とはいえ、尊敬している人にすごいと思われたいなんて高望み過ぎるだろうか。と、「とはいえ」をずーっと頭の中で続けてしまう。結果、認識されてぇ~

 

ところで、尊敬する人の尊敬する人として、小林賢太郎さんがいる。私も小林賢太郎さんが好きなので、小林賢太郎さんの話をしてお茶を濁そう。

 

知っている人には説明の必要がないかもしれないが、小林賢太郎さんはテレビにはほとんど出ないコントクリエイターである。コントクリエイター、というのは今適当に考えた言葉だが、芸人という言葉があまりそぐわないのでちょうどいいだろう。美大を出ていて、現在はピンコントを中心に活動しているが、映像を使ったりアートを有機的に絡めるような舞台を作っているので、クリエイターという言葉がしっくりくる。

ピンコントも良いが、私が好きなのは「ラーメンズ」時代だ。片桐仁さんという、もしゃもしゃ頭の面白い人とコンビになっている。終始二人が大繩を回しているだけのコントとか、片方が竹馬に乗って無言の相方の周りをひたすら歌いながら回るコントとか、相方を標本にして新種の生き物のように語るコントとか、「新時代のオモシロ」を切り開こうとする強い意志を感じる作品が多い。創作されるのは単純な笑いだけではないから、必ずしも全部が観客にバカウケしているわけではないのだが、世の中の新しいオモシロの切り口にははっとさせられるし、その発見も含めて「おもしろい」。オモシロって、全てがゲラゲラ笑う種類のものではなくても構わなくて、「こんなことやっちゃうの?」という意外性も面白いし、「あ、こういう面白さがあるんだな」という発見だって面白いし、時には軽快な会話を聞いているだけでも面白い。そういう切り口をコントに落とし込めるのはすごいと思う。

二人とも演技があり得ないくらいうまいので、そこもまた見どころである。ちなみに全てのコントはYoutubeで配信されているので、誰でもすぐに見ることが出来る。

 

https://www.youtube.com/channel/UCQ75mjyRYZbprTUwO5kP8ig

 

このコンビのオススメコントをいくつか紹介しようと思ってYoutubeを見返していたのだが、無限に見てしまい小説を書く時間がなくなってしまいそうなので、今回は辞めておこう。好きなコントは各自で発見してもらいたい。フリーターになったら、めちゃくちゃ時間をかけて紹介記事でも何でも書いてみせるぞ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=tzWbdRU5QSc

路上のギリジン

誕生日サプライズが社会に落とす影

2018年以降、文壇での存在感は薄まる一方である私だが、本日、23歳になった。早すぎる。時間って奴は、ブレーキが壊れた暴走車なのか? たまには信号を見て止まって欲しい。

 

ところで誕生日といえば、サプライズというのが流行っている。お店を予約してくれた友人が、名前の入ったケーキを注文してくれていたり、友人の家に遊びに行ったらクラッカーを打ち鳴らされたり。さすがに私のイメージは古典的かもしれないが、まあ大きくはかけ離れていない(はず)

 

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Happy Birthday

私が高校の時は、サプライズという文化は今ほど市民権を得てはいなかったと思うのだが、私の同級生は誕生日の人にホースで水をぶっかけたり、ホールケーキを顔にぶつけたりしていた。その後はホームルームで「食べ物が勿体ない」という話をされた。此処は幼稚園か。

 

まあそういった感じで、陽キャの人ほど、何らかの刺激的な方法で加齢を実感すると思うのだが、こういうサプライズが「文化」になることについて、どう思うだろうか?私は、社会通念がサプライズを「当たり前」に押し上げていくのに、困惑を感じている。

 

私の話になるが、去年、友人から「お誕生日お祝いするよ!」とご飯に誘われたことがある。普通に食事を楽しんでいたのだが、会話の最中、友人がハッと言ったのだ。

「あ、サプライズとかは特にないからね!」

私は、サプライズが存在する文化圏にいなかったので、誕生日を祝うために会う=サプライズがある、という思考がなくて、わざわざそんな断りを入れられたことにビックリした。誘ってくれただけで嬉しいのに、と思ったが、そう言ったところで、「そっか!サプライズは用意してないけど、誘っただけで光琴はハッピーなんだね!ああ、この世は愛と祝福に満ちている!」とはならないし、言った方は、相手に喜びのハードルを下げさせてしまったことを申し訳なく思ってしまうだろう。そんな連鎖がそこかしこで起こっていくうちに、次第に、サプライズを「しない」という選択肢の方が狭められていく。社会の嫌なピタゴラスイッチを見せられている気分だ。

 

この世には、「予定されたありがとう」が存在する。非言語領域で何らかの行為を求め、相手がその通りに振舞ったら発せられるお礼である。例えば、電車の中、一つだけ空いてる席の前で、老人たちが聞こえよがしにする「あんたが座りなよ」「いやいやあんたが」っていう会話など。あれこそ、隣の人間に譲ってもらうことをやんわり強要していやしないか。譲れば、一応「ありがとう」とは言われるが、それは所詮予定調和のお礼である。「譲ってもらうつもりなんて一ミリもなかった」という無垢無垢(むくむく)の老人が、例外的にいないとは言わないが。

 

ともかく、サプライズというのは本来、「予定外のありがとう」を獲得するための行為のはずなのに、サプライズという文化が染み渡ると、「誕生日を祝ってくれるということは、即ち何かあるのだろう」という思考が自然に醸成されて、サプライズ後の「ありがとう」の質が変容してしまうのだ。そうなると、サプライズの後の「ありがとう」は、お年玉もらった子供とか、重たい荷物をヨロヨロ持っている女子とか、道を訪ね終わった後のstrangerとかの「ありがとう」と同じになる。

 

それでも、礼を言えるだけまだマシだ。「何かされるかもしれない」という期待を持ってしまうと、本当に何にもない時につらい。このサプライズの文化は、最早数少なくなってしまった純粋な驚きと引き換えに、不必要な悲しみというリスクを背負わせる。そして気の使えない奴は、無自覚に彼らを悲しみに突き落としてしまう。

 

だからといって、「サプライズをなくせ」なんて言うつもりはなく、困ったものである、という思い付きをこの場で垂れ流すだけだ。所詮私は、無力な大衆の一人である。

 

サプライズの文化は、きっとこれからも肯定されていくだろう。これは、喜びを伴う行為の宿命とも言えるかもしれない。善意を下敷きにした行為を否定する人はいない。否定するのは、自分がその享受者になれない者だけである。

また、この文化が消えない背景として、否定する理由が錦の御旗にはなれないこともあると思う。

この世には、「正当化されない期待」が存在する。「合格しますように!」「病気が治りますように!」は大手をふって歩ける"期待"だが、「誕生日プレゼントに何か欲しい!」という"期待"は肩身が狭い。恐らく能動的な期待は肯定的に見られるが、受動的な期待が嫌われるのだ。「宝くじ当たると良いな」といった天から降る系を除けば、受動的な期待にははっきりとした対象がいて、その相手に具体的な行為を求めているのだから。

誕生日サプライズが引き起こす不幸は、この受動的な期待が起因している。だから、誕生日サプライズを否定する理由に言及すると、人が無意識に恥ずかしいと思っている領域に抵触してしまうことになる。だから、誕生日前後の「何かしてくれるかも」という期待は、世俗的な背景から自然に生まれてしまうものだけれども、日の目を見ることはない。胸に抱いていることを自覚することすら許されない感情なのだ。

 

こうして誕生日サプライズは、善意を下敷きにしている故に肯定され続け、ますます増長していく。即ちこの文化には、不毛な結末しか用意されていない。善意から始まった現象が何かを歪ませていくことは割りとあるが、これもまたその一例かもしれない。

 

皆さんも、誕生日の際はくれぐれも気を付けるように。ちなみに私の誕生日は、何もないままもうじき終わります。

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本当に今日は何もなかったので、何年か前のケーキの写真を探していたら日付が変わりました。

 

集団での会話は大繩である

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 一対一ならあまり感じないが、集団で会話するのは、どうしてあれ程に難しいのだろう。
私は、5人以上の会話が苦手だ。7人以上になると、もうまともに発言出来ない。特に飲み会の会話が難しい。あの乱れきった交感神経を刺激する面白いことなんて言えないし、言おうとしたところで、飲み会オモロ裁判でGuiltyの判決が下されるのみである。コミュニケーション能力にも色々種類があるが、知らない人に話し掛けるよりも、飲み会の盛り上げ役になる方が難しいと個人的には思う。

 そもそも、会話の性質が違うのだ。一対一の会話がキャッチボールなら、集団での会話は大繩だと思う。縄を回す人が一人か、或いは二人くらいいて、あとの人たちは次から次へと縄の中に入っていく。私はいつも、そのタイミングが掴めない。縄をぐるぐると目で追っているうちに、時間がどんどん経ってしまう。親切な人が「おいでよー」と誘ってくれて入れてもらえたとしても、足を引っかけてしまいそうで怖いのだ。

 キャッチボールなら出来るし、お喋りは好きな方だとも思う。ただ、自分以外の人々が仲良くしている集団にたじろいてしまうのだ。「皆が聞いているからには面白いことを言わなきゃ!」と思うくせに、面白いことを言うスキルがないので、黙ってしまう。
 「面白い人間」というのは大まかに二種類いる。その場の空気に合わせて「面白い発言」が出来る人間と、存在そのものが「面白い」人間。ズレを指摘できる人間と、そもそも性格がズレている人間だ。お笑いならば、前者がツッコミで後者がボケだ。まあ、お笑いのボケ芸人のズレはあくまで売り物なので、素の人格の話ではない。
ではこのボケとツッコミが、ピンで飲み会に出たとしたらどうだろう。ツッコミならば、周りの話に、熟年の柔道家が瓦を割っていくように次々と突っ込んで、笑いをかっさらうことだろう。スキルの高いボケならば、陶芸家が練り上げた陶器のように完璧なエピソードトークをすることで、ドッカンドッカンやるだろう。

 

 私が上手い会話が出来ないのは、ボケているくせに、ボケが持つべきスキルがないせいである。まず必要なのは、溢れるオモシロエピソードと巧みなトークスキルだろう。それにあともう一つ加えるとすれば、「ボケの操作性」だ。

 私が思うに、意識したボケというのは最強である。彼らの手の内にはオモシロの全てが握られており、指を握ったり開いたりするだけで、周りの笑い袋が地雷のように炸裂するのだ。一方、「天然」というのは悲しき存在である。奴らは、偶発的にしかオモシロを生み出すことが出来ない。彼らの生み出す笑いは神が作り給いし原石であるが、蓋然性が低いという不幸を内包する。

 要は、操作できないボケは、その場にいる人間に面白がってもらうことでしか存在出来ないのだ。周りの人間が面白さに気付かない限り、そやつはただのズレた人間である。ズレているから、フツーの会話に参加しようとしても、ぐっちゃぐちゃにして終わる。

 私が天然由来のボケなのか、それとも「平凡」と「アホ」のキメラなのかは判然としないが、一つ確かに言えることは、私は自分のズレを操作できないということだ。多分、このズレを変幻自在に出し入れできない限り、私がコミュニケーションお化けに生まれ変わることはない。

 

 だが困ったことに、私のコミュニケーション能力は、人体感知センサー搭載型である。受け入れてくれそうな集団を感知すれば自動的にオンになる一方、それが分からない環境では、いくらリモコンをガチガチやっても入らない。自動ドアが手動では開かないようなものだ。立っているのが、強盗ではなくただの客だと目で分かっていても、操作を変更できない。

 

 でも、大繩の会話も出来るようになりたいのだ。何なら、三重飛びのようなエピソードトークも出来るようになりたい。どうしたら、そんな面白い人間になれるのだろう? 面白ければ、初めての環境であろうと、自分以外の人々が仲の良い空間であっても、気軽に受け入れられることが出来るだろうに。

 だが残念なことに私は、既存の集団の会話に入ることが出来ないタチのようだ。全員が初めましての環境ならまだしも、既に形成されているコミュニティーに新参者として入る時、したくもないのに物怖じしてしまう。

 

 バイト先の塾も、そんな躊躇いのあった集団の一つだ。別に仲間外れにされていた訳ではなく、飲み会にも行ったし、泊まりでボードゲームをしたり、ボウリングに行ったこともある。だけど、私と皆よりも、私以外の皆の方が仲が良かったせいか、最後までこの集団の一員だという実感が持てなかった。私は中心メンバーにはおらず、いつも「~日に行くんだけど空いてる?」と誘われる方だった。スキー旅行にも誘われたけれど、輪の中に入る自信がなかったので、理由を付けて断ってしまった。

 別に、バイト先の人たちが悪かったわけではない。誘われたら嬉しかったし、もっと仲良くなりたいとも思っていた。だから、「どうして積極的に輪に入っていかなかったの?」と聞かれたら、答えられない。ただ、飲み会に行っても置物になってしまうことが分かりきっていた。楽しく話している人たちの横で、挟める言葉を見つけられないでいる自分がいた。何処か、皆と自分の距離は遠いような感覚があり、何をすればそれが埋まるのか分からなかった。
親しみを表す発言は、親しくなければ失礼に受け取られる。他の誰かが言えば笑って受け流されるような言葉も、私が言うと、失礼に取られるのではないかと思った。怖くて踏み込めないまま、距離は広がった。そのうち、私以外の人たちが、私を交えずに集まっていることを知った。

 何かを割り切って淡々とバイトをするようになり、遂に引退という送迎会の時。あっさりと終わるのだろうと思っていたが、思いがけず、後輩たちから口々に言われた。
「篠宮先輩がいなくなってしまうの、寂しいです!」
「またいつでも、この塾に遊びに来て下さいね!」
「待ってますから!」
 後輩たちは皆寂しそうな顔をしており、中には泣いている人もいた。「ありがとう」と言いながら、私は驚いていた。本当にこれは、私のために流された涙だろうか。もし――もしそうだとすれば、大して面白い発言など出来なかった私を、どうしてそんなに慕ってくれているのだろう。いつの間に、私のことを受け入れてくれていたのだろう。

 そういえば、私の話に「面白いですね」と笑ってくれたことはあった。「一緒に飲みに行きたいです」と話しかけてくれたことも。だが私は、タイミングが見つけられなくて、或いは忙しくて、或いは、どうせ上手く話せないからと思って、一度も誘ったことがなかった。

 

 もしかすると彼らは、私が大縄に入れずにたじろいていた横で、もっと小さい縄跳びで遊ぼうじゃないかと、私に呼び掛けてくれていたのだろうか。

 

 初めてそう気付かされ、猛烈な後悔に襲われた。もっと後輩と話をすれば良かった。自分から飲みに誘ったりもすれば良かった。そうすればいつかは人体感知センサーのロックが解除され、普通に話せる日が来ていたかもしれない。自分が組織の一員でないかのような実感も、味わわずに済んだかもしれない。

 

 それに最後まで気付けなかったことが悔しく、やるせなかった。
自分の存在する意義は、親切な他人に作ってもらうものではなく、自ら少しずつ積み上げていかねばならなかったのだ。

 

 社会人になっても、相変わらず集団での会話は苦手のままだ。少しはオジサンのユーモアにも慣れて、時折ドッカンドッカンを出来ることもあるが、やはり取り残されることはしばしばある。新人なので、あまり喋ると出しゃばっているようにも見えるし、かといって黙っていれば気を使われてしまう。その匙加減が分からなくて、また、やはり口を開けば失礼を働いてしまうのではと怖くて、一層喋れなくなってしまう。
そうして周りの賑わいに取り残されている時、私はこの塾のことをよく思い出す。その度に、胸の奥には濃いコーヒーのような後味が広がって切なくなる一方、目の前の大繩から眼を逸らさずに、ちゃんとタイミングを見て入ろうと思うのだ。

伝わらない言葉に意味はないのか

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言語化しなさい」とよく言われる。就活の自己分析で、ゼミのプレゼンで、仕事のPDCAサイクルの中で。

一方、「語彙力がない」ともよく聞く。美しい景色を見た時に、映画を観た後に、面白かった出来事を話す時に。「伝えたいし伝えなきゃいけないんだけど、伝える手段がない」と思っている人はたくさんいる。

確かに、語彙が少ないと不自由だ。使い古された表現だと新鮮味が足りないし、使い回しのきく言葉だと、振れ幅の大きさ故に正確さに欠ける。特に「すごい」と「ヤバい」は、あまりにも多くのものを託されすぎである。これほどたくさんの荷物を背負って、よくもまあ肩が壊れないものだ。まあ昔の人々とて、「をかし」に感動のほとんどを閉じ込めていたのだから、これは現代特有の現象とも一概には言えない。だがこうした、プラスの意味とマイナスの意味を併せ持つ単語に助けられる一方、細やかな表現が出来ないから「語彙力がない」と人は言う。

だが私は、「語彙力がない」と言う文章の「語彙」とは、実は言葉の数のことではないと思っている。例えば、山盛りのパンケーキを見た時、「マジヤバい!すごい!」とはしゃいでいる人は、果たしてこうなりたいのだろうか?

「アルプスを彷彿(ほうふつ)とさせるホイップクリーム(いただき)からは、イチゴジャムが、さながら清流からかけ下った細い滝のような趣で流れている。土台として、羅針盤(らしんばん)のように(まど)かな形をしたホットケーキが三段積みあがる。この、稚児(ちご)の頬のような柔らかさは、私が積年得たいと懊悩(おうのう)してきたもの…。口に含むと、馥郁(ふくいく)とした芳香が鼻腔を突き抜け、舌の上はまるで中世の舞踏会、沸き上がる感動は燎原(りょうげん)の火」

いや、違う。いくらかふざけたことを差し引いても、これは彼らの求めているものではない。というか、パンケーキを食べて「燎原の火」とか言い出す奴とは関わらない方が良い。多分戦乱を巻き起こす。

でも、「語彙がある」というのが、単純に「多くの言葉を知っている」という意味なのだとしたら、これはあながち間違いではない。「悩む」は「懊悩する」に、「良いかおり」は「馥郁とした芳香」に、「めっちゃ美味しかった!」は「感動が燎原の火のように広がった」と言い換えれば良い。そしてこういう語彙を習得したいなら、漢字検定を勉強するのが早い。漢検漢字辞典じゃ足りない、大漢和辞典でも買いなさい。わーお、補巻をいれて全13冊ある日本最大の漢字辞典の登場だ! 熟語の用例は古典籍なので教養も身に付くぞ!

 

でも、残念ながらそうはならないのである。それは、皆が難しい言葉を覚えたいとは思っておらず、平易な言葉の中で、共感を呼び起こす表現を作りたいと考えているからだ。要は、言葉同士の組み合わせが上手く出来ないと言っている。

「もう卒業式だーと思うと超寂しくて、この体育館でよく練習したなとか、毎日のこととか色々思い出して、あー悲しーと思ったらすごく感情昂って、思わずゲロゲロに泣いちゃった」

「式典の最中、もう卒業なんだなあって、この体育館でボールを片付けていた毎日を思い出したの。見ると、ぴったり仕舞っている倉庫は、式典用の布できっちり覆われていて、ああ、もう私がこの体育館のボールを見ることはないんだなあ……と思うと、思わず、泣いちゃった」

模範解答ではないかもしれないが、先程よりは求めているものに近付いた筈だ。別にこの文章は特段語彙が多いわけではないが、前者より後者の方が伝わりやすかったのではないだろうか。話し手の感じている「悲しさ」が、聞き手の中にも僅かに呼び起こされる。きっと、前者の聞き手と後者の聞き手は、それぞれ異なる表情を浮かべている筈だ。

こういう風に、分かりやすく伝えたいけれど表現が思い付かない、と人は嘆く。一説によると、その嘆きの涙が集まって多摩川になったのだと言われている。

 

言葉は伝達の手段だとすれば、伝わらない言葉に意味などない。伝わらなければだめだ、と皆は思う。だけどつい、汎用性のある便利な言葉に頼る。だが、「すごい」というのは、話し手の伝えたい物事の助っ人になってはくれても、会話において「すごい」効果を生むヒーローになるのは難しい。

「すごい」だけに限らない。伝えたくて、自分の中の引き出しを漁って出てきた言葉たちは、何かが物足りない気がする。引き出しを漁っても出てこないから、持っていないのだ、と思う。人に何かを相談するときは特に、自分でも整理が付けられていないものを言葉にしていかなければならないから辛い。友人の反応に対して、「違う違う!私はそうは思ってはいないのだけど……」と思わず首を振りたくなった経験があるのは、どうやら私だけではないようだ。

 

だけど私は、名付けて「言語化至上主義」という勢力に賛同は出来ない。私は、それが実体にせよ虚体にせよ、モノの核は言語化出来ないと思っているし、伝わらないのもまた言葉であると思っているからだ。

読者の中の不良は、きっとこう言う筈だ。

おいおい、筆で食うことを志している人間が何言っている?お前はボールをゴミ箱に蹴り入れたサッカー選手か? そのくるくるパーマをウンチリーゼントにしてやろうか? と。

ウンチリーゼントというのが何かというのは措いておき、私が言葉を最上のものだと考えていないのは確かだ。私は言葉が好きだし、その可能性や奥深さに疑問を呈するつもりはないけれども、結局本質的に、言葉はこの世界に追い付けないだろうとも思っている。そこに諦めはない。ただ、そういうものなのだろうな、と一人で確信しているだけだ。

 

氷山の一角という表現は、手垢が付きすぎて好みではない。広葉樹、くらいにしておこうか。初めに種があり、根を張って若葉が生え、枝を伸ばして若木になり、秋になると、ようやく葉を落とす広葉樹だ。言葉というのは、この落ちた葉にも似ている。種であるうち、若木であるうちは、存在はしているが伝えることはできない。葉は、自然に落ちてくるまで、中で眠る。その人が、感じたことを山のように積み重ねて木を育て、ようやく意識の層にたどり着き、さらに一定のラインを越えて、ようやく人はその感触を言葉に出来るのだと思う。特に、思想や感情は、こうして出すのに時間が掛かる。

だが、ようやく落葉したからといって、その葉を手に取った人が幹の全てを想像するのも無理な話だ。人というのは、生まれつき嵌ったコンタクトを外すことが出来ないので、見えるものは歪む。だから一層、苦労して伝えた方からすれば、「そうじゃない!」と思う。

一方、説明が得意な人は確かにいる。自分の感情に相手の共感を誘える人、自分の思考に理由を持たせられる人、分かりやすく丁寧な言葉遣いが出来る人。彼らは、落ちた葉から、限りなく正確に自分の意図を表現できる人種だ。私は下手なので、彼らが純粋に羨ましい。こういう人の一定数は、多分この記事を読んで「一体何を言っているんだ?」と思っていることだろう。上手くやれば伝えることは出来る。幹の全容を想像させれば良いんだろう? そのためのメソッドはこの本に書いてあってベストセラーにもランクインしているから読んでよ、といった具合に。

 

でもそういった、小見出したくさんありがち、大事なこと太字にしがち、表紙がソフトカバーがちな本をいくら読んでも、私のの確信が変わることはないだろう。

 

言語学を学んで、面白い話を知った。その中に、サピア・ウォーフ仮説というものがある。一行でまとめると、母語が世界の見え方を決定する、といった考え方だ。分かりやすい例で言えば、日本語の雨とアラビア語ラクダだろうか。日本語には雨を区別する表現がたくさんあり、まあそれは雨が多い土壌で暮らしているからなのだが、そうして雨を区別し表現する手段が豊富だと、「あ、これは霧雨」「これは豪雨」とか、同じ「雨」を言葉によって別々に切り分けられるので、それだけ豊かに雨を捉えられるわけだ。だから、同じ「雨」でも、アラブの人たちとは捉え方が違う。一方アラビア語におけるラクダも、「雨」と同じく表現の手段が多様なので、彼らはラクダをより細やかにまなざせるということになる。

私はこの話を聞いたとき、ショックを受けた。それでは、感情を表す言葉が存在しない時、その感情は言葉に写し取れないのだろうか? 昔の人が与えた言語の枠に収まらないものは、似た形の枠に押し込めるしかなく、そうして何かは少しずつ歪んで、はみ出たものは消えてしまうのではないだろうか?

 

私は原稿用紙の前で、よく唸っている。どうしてこう、「苦しい」とか「寂しい」ということを表すのに、「苦しい」とか「寂しい」しか言葉がないのだろうか。「苦しい」じゃ足りないのだ。「悲しい」も、汎用性が高すぎてダメだ。「胸が痛い」とか、「心臓を鷲掴み」も何か違う。あと、心臓、早鐘打ちすぎ。前世はドラムでもやってたのか? そういえば神経科学の本に、神経の興奮は今抱いている感情を増幅させる効果しかなくて、幸せとか緊張とか動揺とか、ベースになる土台の振れ幅を大きくするだけと書いてあった。だから、どんなシーンでも心臓は早鐘打ちがちなんだ。ところで先程から一文字も進んでいない。とかそんな感じである。

要は、「苦しい」「悲しい」だけでは、「(うろ)」が表現しきれないのだ。これは負の感情に限らず、ポジティブな表現に関してもいえる。

・好きな人から返信があった。

・大学に合格した。

・久しぶりに会った恩師から成長を褒められた。

・好きな漫画の最新刊が発売された。

これらはどれも「嬉しい」だし、それを疑ったことなどなかった。でも、その時思ったのだ。

 

「嬉しい」に閉じ込められているうちは気付かないだけで、もしかしたらこれら全部、微妙に違う種類の感情なのかもしれない、と。

ただ押し込める箱が、「嬉しい」の一つしかないだけで。

 

もちろん形容詞の惑星から離れてみれば、この差分も表現できなくはないと思う。それこそ冒頭の「組み合わせ」で、何とかなる領域もある。

だけど、それだけではどうしても埋らない核は存在する。というか、「伝える」ということが、「同じ感情や情景を喚起させる」ということだと定義すれば、それだけでことは簡単に破綻する。哲学の領域に足を踏み入れて、「同じとは何か?」「それを確かめる方法は存在するのか?」と議論しあわなければならないからだ。「本」という言葉1つとっても、私の想起する本とあなたの想起する本は微妙に異なるかもしれず、ましてやそれが抽象的な物事だとしたら、同一かどうかなんて確かめようがないではないか。

「言葉というのは果たして通じているのか?」という哲学的な問いかけがしたい訳ではない。ただこの世には、伝わらない言葉や、言葉にならないモノも存在することを、私は知ってもらいたいのだ。

掴めそうで、でも靄のように消えてしまう淡い何かや、言葉の枠に押し込めると、形を変えてしまうモノはある。言葉の能力を高めたら、それらの全てを捕まえられるようになるかというと、決してそんなことはないと思う。

 

では、もう一度問う。

言葉は伝達の手段なのか。

 

それだけではない、と私は思う。

 

まとまっていない、ぐちゃぐちゃのまま書き散らした言葉もあれば、伝わることを諦めて、宙を漂ってしまう言葉もある。ぐるぐると廻っているだけで、いつの間にか何処かに行ってしまうことも。

言葉は、激情を溶かした河ではないのだ。言葉は水の形をしていないし、激情は必ずしも水溶性ではない。ごろごろと歪なモノたちは、届けられないまま消えてしまうこともあるし、いつの間にか何処かに忘れられてしまうこともある。

そんな曖昧なモノが世の中のほとんどを満たしていて、言葉にして自分の手のひらに扱えることの方が少ない。そんな中で、あらゆることを「言語化」出来ると思い込むのは不幸なことだ。「伝えられる」モノなんて、この世の何割かに過ぎないのに。

 

でも、そんな中で、私は筆を取りたい。

「伝える」ためだけではない。

 

読者の中の、何かしらのモノを動かしたいから、筆を取りたいのだ。

 

事象の枠組みを伝えたいなら、それは新聞で構わない。思想の真ん中を伝えたいなら、それは論文で構わない。私が書きたいのは、物語だ。

自分が伝えたいことが伝わらなくても構わない。私の小説を読んだ人の中の、何かが動けばそれで良い。それが私の意図したことでなくても、その何かの呼び水になれれば、私の小説は小説になれる。

 

だから、というのは強引かもしれないが。自分の思いが伝わらない感じがしても、心配しないでほしい。言葉を組み合わせても何かが逃げてしまう感覚を、自分の力不足のせいにしないで欲しい。

もしかしたらそれは、誰も見付けてこなかった、新しい何かである可能性があるのだから。

「辞めたい」

よほど幸運な人間でもない限り、多くの人は、一度はこう思ったことがあるのではないか。

「辞めたい」、と。

世の中の全ての不満を箱にかき集めてみたら、きっと労働に対する不満と配偶者に対する不満が半分以上のスペースを持っていくだろう。残りは、店や企業(商品・サービス)に対する不満、政治に対する不満で、これらがなくなれば、残ったものはそう多くはない。労働と配偶者は、自己承認欲求と密接に関わっているから、払拭するのが余計に難しい。

だけど、労働の主張のなかで受け入れられるのは、誰もが頷けるほどの理不尽な環境からの訴えだけである。中途半端なものは、たちまちマウント合戦のサンドバックにされる。「今月も20時間もサービス残業した」と言えば「20時間なんて少ない」「俺の方がもっと残業している」という返答が返ってくるし、「給料が安い」「こんなハラスメントにあった」と言っても「派遣の方が辛い」とか「そんなのはまだ生易しい」とか言われる。全員からの同情を得られるのは、最も劣悪な環境にいる者だけなのである。中間層の人間は、更に悪い労働条件を知っているから、「自分はまだマシなんだ」と思うことで、不満を飲み込もうとする。
この程度で音を上げるなんてダメだ。まだ自分の職場は、こういうところでは恵まれているじゃないか、頑張らなければ、と。

私も今まで、その幻想に縛られていた。

今日、中間面談で次長の目の前で泣いてしまった。
いつの間にこんなに傷付いていたのだろう、と呆然と思いながら。

 

私の業界は、どうやらハードなイメージがあまりないようだ。正直、入る前は私もそういうイメージを抱いており、小説を書くための時間を確保しつつ、ある程度興味も持て、社会勉強が出来そうな場だと思って選んだ。まあ本音はそうであっても、志望理由は?と聞かれた時には、それっぽく語れる程度には情熱もあった。
仕事をしていて、確かに社会勉強にはなっている、と思う。だが、楽な職場では全然なかった。私の配属が、言うなればホワイト企業のブラック部署であるのも関係しているかもしれない。志望理由にこの部署の仕事を挙げる人間は多いかもしれないが、いざ身をおいてみると、めまぐるしいし責任は重いし、早出も休日出勤も多いし、残業時間もピカイチだし、その割に何かあった時は槍玉に上がりやすい、損な役回りでもある。

それでも、私はここを「恵まれてる」と思おうとしていたし、「職場の人は優しい」と思っていた。
だけど、最近疲れてきたせいか、気付いてしまった。

「恵まれた環境」「人間関係は問題ない」というのは、要は私が抱いていたイメージと現実との乖離を埋めるために、自分自身に付き続けているウソで、現実を認めたくないだけだったのかもしれない、と。

私程度の悩みや不満を打ち明けるなんて、もっと劣悪な環境にいる人に失礼だ、と思っていたし、弱音なんて吐いても誰も耳を傾けてくれないだろう。しかし、自然と沸き出てしまう思いを封じ込めるのは、ひどく消耗する。
就職する前と比べ、私は明らかに笑わなくなったし、萎縮するようになった。自分の可能性を信じることが出来なくなり、以前のように楽天的に物事を考えられなくなった。
何故ならあまりにも、つらいと感じることが多いから。
責められ、謝罪をしなければならない機会が増えたから。

何もストレスがない職場なんてないと分かっている。自分がしっかりすれば怒られることもないって分かっている。

けれど。

正直、辞めたいと思わない日は一日もない。

 

上司の細かすぎる指摘で全部の作業をやり直しにさせられたり、
ステークホルダーから直接不満をぶつけられたり、
効率が悪い業務も制約だらけで変えられなかったり、
問い合わせが多過ぎて自分の業務を進められなかったり、
分からないことを質問されて答えられなかったら怒られたり、
自分の能力を活かせる仕事なんてなかったり、
逆に苦手とする几帳面さが求められる仕事ばかりだったり、
上司と反りが合わなくて信頼関係がガタガタだったり、
書類を提出してくれない人に催促の電話を掛けなければならなかったり、
派遣のミスを私が代わりに怒られたり、

やめてくれ。

全部、投げ出させてくれ。

言ってはいけないことだと充分に分かっているけれど、遠慮も堪忍袋の緒もぶち破って叫びたくなる。

「向いてない!!」

と。

でも、我に返った私は、きっとこう言うだろう。

「お見苦しいところをお見せしてしまい、大変申し訳ございません。
それでは、ご用件をお伺いしても宜しいでしょうか?」


「優秀」

多分私が優秀であれば、抱えずに済んだストレスもあるのだろう。
だけど私は優秀ではないので、言われたことをきっちりこなせない。頼んだ相手も、やり直しをしなければならない私もストレスが溜まる。きっちり、きっちりと、を強いられるのが上司にとっては「仕事だから当たり前でしょ」であり、私にとって苦痛であることを理解できないのだ。
エクセルの印刷の見映えを整えるために、パソコンの設定を変えるべく四苦八苦する時間が苦痛だ。名称が微妙に違っていただけで、資料を全部刷り直すのも苦痛だ。そのくせ「カラーは勿体ない」とか言われて、苦労して一つ一つ色分けしたものを全部グレースケールに手直しするのも苦痛だ。自分なりに工夫したことも一瞬で覆され、上司の謎の拘りに付き合わされるのも嫌だ。全てが終わった後になって一言言われるのも嫌だ。窓口で自分の担当でないことを質問され、答えられないと顔をしかめられるのも嫌だ。電話口で延々とクレームを言われるのも嫌だ。

こんな無駄なことのために業務の時間が圧迫されて時間外が発生し、小説を書けないのが一番嫌だ。

 

仕事中、唐突に半狂乱になって、PCの画面を脳天でカチ割りたくなる衝動が、私を襲う。

 

直属の係長と相性が悪いのも、ストレスの一つである。完璧主義者の上司は、仕事はできるけど、適当な私を絶対に許さない。社会人としての基本がなっていない、と言外に滲ませて責める。

所詮完璧になど出来ない私が悪いのだろうが、ダメな部分ばかりが向こうの目につき、気付けばいつも怒られている。上司が私に向ける言葉は、命令と、叱責と、説明だけだ。それ以外には何もない。

理不尽な怒られ方をしないだけマシ、と思っても、惨めな気持ちになるのを抑えることが出来ない。ああ、またダメなんだな、ああ、これも一からやり直しか。やっていく中で、こうしたら良いのでは?と思ってした工夫は全部否定される。そうして指示に従っているうちに、私はどんどん消耗していく。

でも、どれだけ動揺しても、このつらさの原因が全て自分以外にあるとは言えないことも、悲しいが分かっている。
これは謂れのない職場いじめではないし、上司は業務に必要だから怒っているだけだ。私の上司は慎重で几帳面でミスをしないし、危機管理能力に優れているし、私が問題を持ち込んでも、冷静に的確な指示を出してくれる。次長や、もっと上の人からも信頼されるほど、優秀なのである。だから、私が出来る人間なら、何か言われることはないのだろう。その人が私を叱責するのは、快感を得るためではなくて、義務感や使命感からだと分かっている。
でも、頭で分かっていることを、利口ではない私は簡単に飲み下せない。割りきって、自分を見つめ直し、改善策を考えることが出来ない。みっともない感情に苛まれている、惨めな自分を持て余して、せめて大人でいるために、その姿を見られないようにトイレに向かうだけだ。

 

私はきっと、至らない自分でいることがつらいのだと思う。上司が私以外の人に優しいのも、彼らは私と違って長所があるからで、多分私にはそれがない。上司が、他の人には気軽にする雑談を、私に一切してこないのも、半年以上も一番長く接しているのに未だに打ち解けられないのも、多分私に何らかの原因があるからなのだ。


「社会勉強」

優秀な人間ならば言うだろう。怒られるのも仕事のうちだ、と。或いは、1年目なのだから仕方ない、と。もしかしたら、仕事での注意は人間否定ではないと、慰めてくれるかもしれない。
でもそう思うのは、彼らが社会に慣れることに成功しているからだ。厳しい指導で成長をした体験を持ち、心を頑丈な砥石で削ってきたからだ。
私には、その心がない。みっともなくて恐縮だけど、怒られれば萎縮してしまうし、考えたことが否定されれば、次から何を言って良いか分からなくなる。私が議事録を書かなければならない会議も、正直今何を話し合っているのか分かっていないことがあるし、指示も正確に受け取れないし、求められても上手に話すことが出来ない。そのたびに、理解力がない、と落ち込む。
認めてしまうのは悲しいけれど、私はきっと、優秀ではないのだろう。一を聞いて十を知るタイプでもないし、必要なことを察して自ら動くことも出来ない。学生時代、あれだけ勉強してきたことは一体何だったのか。こうして傷付くための自尊心を積み上げることだったのか。

 

そろそろ、「1年目だからね」という優しさの期限が切れてしまう。
その日までに、何とかしなければ、と思うけれど、私に出来るのは、俯いてメモを取ることだけだ。

上司と上手くやれないたび、話がうまく飲み込めないたび、いたたまれなくなって、デスクを逃げ出したくて堪らなくなる。こんなことで立ち止まっていないで、前向きに欠点を補っていけば良いのではと、そう思うのに、私は簡単に泣いてしまう。明確な理由も分からず、「どうして泣いているの?」という自身の問いかけにも答えを見つけられないまま、無性に込み上げるつらさを抑えることが出来ない。ただの子供にはなりたくない、そんなささやかな意地を押し通すため、目が疲れたふりをしてティッシュを押し当てるのだ。自分の無能と弱さを突き付けられる、あのデスクの前で。

 

またあの場所に行くと思うだけで、ひどく疲れる。

催眠術にかかってきた

こんにちは、篠宮です。

突然だが、ARuFaさんをご存じだろうか。このはてなブログで、異次元のオモシロの大地を開拓した「ARuFaの日記」の管理人である。もし知らなかったら、是非記事を読んで欲しい。「下敷きを貼り合わせてバリアにしてみた」とか、「蟹を色々な方法で食べてみた」「ハッタリだけで格闘家をビビらせて勝つことは出来るのか?」「店員に話し掛けられる前に服を買え!即買いコーディネート選手権!」など今は主にオモコロで活躍中で、現代のインターネットオモロの先駆け的存在である。

https://omocoro.jp/staff/arufa
(オモコロURL)

https://omocoro.jp/tag/匿名ラジオ/
(匿名ラジオ)

発想も文章も奇抜で群を抜いているため、彼のことを「天才」と称する人間も多い。かくいう私も、オモシロのカリスマを挙げるとしたら彼を措いては考えられないと思う。おまけに声も格好良いし、歌も上手いし、オモシロへの拘りもカリスマ性も高いから魅力がある。「どうやったらウケるのか」ということを四六時中考えているらしいので、会社の人からは「オモシロコンテンツの詰まった麻袋」とも呼ばれているらしい。彼は「狂ってる」とよく言われるが、おそらく、彼になりたくて狂っていった人々の方が、はるかに多いに違いない。

そのARuFaさんの書いた記事の中に、こんなものがある。

【提案】飲み会に『催眠術師』を呼ぶと最高に楽しいんじゃないの?
http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/bhb/3587

 催眠飲み会! 発想が食パンの2枚切りである。つまり、一見あり得ないがハニートーストなどでは天才的に美味しいということだ。
読んだ時はケラケラ笑わせてもらったのだが、この前Facebookで偶然、この記事を基にしたイベントを見つけた。怪しかったが、私はARuFaさんが好きなので、もちろん行って来た。ちなみに時は台風19号前夜、「地球史上最大」と言われた台風が来る日である。翌日、箱根は観測史上最多雨量に見舞われ、二子玉川が浸水し、東北が水浸しになろうとは、この時点では知る由もなかった。

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宇宙から見た台風19号

https://twitter.com/follow_me_ll/status/1182328990830186497?s=20

より 2019年11月19日所得)


催眠飲み会 スタート

 催眠飲み会を主催するのはNPO法人で、ボランティアの関係者がたくさん連れてこられていた。というか参加者は全員そのNPOの関係者で、ARuFaさんの記事を読んだ人はおらず、私は奇異な目で見られながら「アルファサンオモシロイヨォ」と鳴く珍獣であった。

呼ばれた催眠術師は、夢幻さんという方だ。日本で催眠術師は10人程度しかいないらしいが、その中で2番目にテレビに出ているらしい。

http://cool-d.com
(夢幻さんのサイト)

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皆のイメージをいらすとやで集約


「催眠飲み会」では、初めは和やかな雰囲気で参加者が話す時間が設けられる。催眠にはリラックスした空気が必要らしいので、場をほぐすのだ。参加者は20人ほどで、2つの机に分かれ、ほろ酔いを流し込みながら語らった。

30分ほどで場が温まったら、いよいよ催眠術師の出番だ。ついでに私は以前催眠についての本を読んだことがあり、いつか掛けられたいとずっと思っていた。いよいよその時が来るのである。

ちなみに催眠といったら、操り人形のように何でも言うことを聞いてしまうイメージを持っている人もいるかもしれないが、決してそんなことはない。全て記憶には残るし、「人を殺せ」や「裸になれ」など、本人のモラルに反することは実行させられない。
意外に思われるかもしれないが、催眠には集中力と想像力、そして術師への信頼感が必要だ。被催眠者が、「嫌だ」とか「怖い」という感情を抱いた時、催眠は覚醒してしまう。催眠術師の指示に従わない時も同じだ。「本当に出来るかもしれない」「そうなったら面白いかもしれない」という期待と、「催眠に掛かりたい」という気持ちが必要なのである。
私は勿論そういった類のことやメカニズムも事前学習済みであり、どうせ意に沿わないことなど出来ないんだろう? ははん? と思っていたが、あくまで念のため、クレジットカードや免許証の類は全部家に置いてきた。だってもし、「あなたはクレジットカードを渡したくなーる」という催眠に掛けられたら、私の雀の涙ほどの貯金が、インフルエンザウィルスくらいまでに小さくなってしまうではないか。いやいや、それは困る。

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ウィルス




催眠に掛かった人 鑑賞タイム


さて、いよいよ催眠の始まりだ。催眠術師の導きに従い、参加者は想像力を膨らませていく。
初めにかけられたのは「目が開かなくなる催眠」。天井の一点で集中できる箇所を見つめ、ぼうっと見つめ続け、さらに見続け、見続けてから、目を閉じる。目を閉じてからもその個所を見続け、術師は、それが心地が良いことのように言葉で我々を誘導していく。

「そして次の瞬間、ハイ! あなたの瞼は、ガッチリと固定されて動かなくなる!」

術師の声が響くと、不思議! 本当に瞼が動かなくなった。力づくで開けようとしても、ガッチリとニカワが張り合わされたように、びくともしない。私は狼狽した。本気でこじ開ければ開かないこともなさそうなのだが、そうしたら瞼が壊れそうな気もした。

命令を解いてもらうと、あっさり開くようになる。続いては、「指がくっついて離れなくなる催眠」。あ、これ本で読んだやつだ、と思ってしまったせいか、この暗示には掛からなかった。接着ボンドで手がべったりと貼りあわされているというイメージを喚起するよう、術師の声は続いていき、実際に指が開かなくなった人もいた。人数が多いので、まず彼らだけ前の席に移動し、私を含めたその他の人は、彼らの様子を観賞することになった。

術師は彼らに語りかけながら、「電車でうたた寝をしているイメージ」を想起させ、より深い催眠へと導いていく。本当に眠ってしまったようにも見えたが、バタバタと参加者の頭が倒れていくのは不思議な光景だった。気持ち良かったのか、頭がぐらぐら動いてしまう人もいたのに、「はい、肩固定だよ!」と言われると、肩がガッチリと固定されて、全く動かなくなる。なんだこれ。

その状態で次々に、「わさびがアボカドに感じられる催眠」「緑色のものを見たら笑いが止まらなくなる催眠」「音楽が鳴ると踊り出したくなる催眠」など、「本当なの?」と思いたくなる催眠が繰り広げられていく。催眠の掛かり方が浅いせいで、わさびを「うわ、からい!」と言ってしまった人もいた。また、被験者により、掛かりやすい種類のものと掛かりにくい種類のものがあるようだ。催眠に入る時も、音の方が掛かりやすい人と、匂いで掛かる人、様々らしい。勉強になった。


催眠に掛かった

……と、此処で終わりなら特に記事にはしないのだが、この後、「最初に催眠にかからなかった人のための時間」というのがあり、個別で催眠術にかけてもらった。その話をメインでしていきたい。

まず、術師は「バケツと風船」の話をする。手を正面に真っ直ぐ突き出してから目を瞑った姿勢で、語りに耳に傾ける。
「あなたは右手で風船を持っており、左手には砂の入ったバケツを持っています。その風船がどんどんどんどん大きく膨らんでいき、逆に砂のはいったバケツはますます重く重くなっていきます。風船は今にも空に舞い上がりそうで、高く高くと持ち上がっていきます。一方バケツが重たくて左手はどんどんだるくなり、持っているのが精一杯なほど、重い。重い、重い、重たくて仕方がない……」
そんな言葉を聞いていた後、「ハイ目を開けて!」と言われて目覚めると、私の両手は大きめのパックンチョばりに割れていた。ここで右手と左手がどれだけ開いているかが、催眠の掛かりやすさを示しているのだそうだ。私は割りと掛かりやすいようである。

それを見ると、夢幻さんは誘導を始める。まずは軽い催眠状態に入ってから、電車でうたた寝をしているイメージにより、深い催眠に入っていく。
「起きた時、あなたはとてもぼおーっとした状態で目覚めます。はい、1,2,3」と言われ、私は顔をあげた。確かに頭がぼんやりとしている。夢幻さんが、私の眼を見て言った。

「僕の経験では、あなたは今日の参加者の中で、トップ3に入るくらい深い催眠に入っていますよ」

 ほんとに⁉ と思った。確かに少し身体は気だるい感じがするが、他に違うところは見つけられない。私がダンス部なら、バク転と宙返りを披露しただろう。まあ所詮、私の限界は芋虫の前転といった所だろうが。
「かかっていますよ」と言うことで、暗示の作用を高めているのではないか? と疑いかけたが、いかんいかん信じなければ催眠にならないのだ。私は確かに気持ちよ~い。心なしか、頭もぼんやりしていた。それでも酔った時ほどではない。アルコールのトランス状態、催眠よりも恐ろしき。この言葉は、家の柱に彫り抜きたい。

「やってほしいことはありますか?」という声を聴き、先程のワサビの催眠を思い出した。全く違うものでもそう感じられるのだろうか。

「ポテチが抹茶味に感じられる催眠を掛けてほしいです」

夢幻さんは頑張った。私にポテチを見つめさせ、舌に抹茶の味を想起させるべく額に汗を浮かべた。私も頑張って、必死にポテチがあの抹茶になるところを想像してみた。だが、色が違っていたからか、私の想像力が足りなかったからなのか、結局ポテチの味は変わらなかった。
「やっぱりしょっぱいです」パリパリとかじりながらそう言って、やっぱり催眠掛かっていないのかな、と少し疑う。でも夢幻さんは「人によって、掛かりやすい暗示は違うからね」と、特に不安になる様子もなく言った。

「あなた多分、この催眠には掛かるよ。試しに、ゆっくりと、自分の全部を乗せるようにして、『わたしのこえ』って言ってみて。一つ一つ、大事に丁寧に、区切るように」
「わ・た・し・の・こ・え」
「はい、あなたの『こえ』、僕がぎゅっと握りました。そして、これを他の子に預けます。そうすると不思議! あなたは声が出なくなる!」

 私は目を見張った。そして、喉の奥から何とか何かの声の塊を出そうと努力した。だけど、何かが喉の入り口をふさいだように、全く声が出なくなっていたのだ!

観客のどよめき。私は喉に手を当てたし、声を出すときにするように、少し前傾の姿勢にもなった。息よりも大きな、空気の塊は確かに私の口から洩れていた。でも、それは「声」にはならなかったのだ!

「可哀想に、はい、あなたの声を戻しますよ」

 夢幻さんがそう言い、参加者の掌に預けていた『こえ』を私の方に抛った。途端に、私の喉からは喘鳴のような声が蘇る。

「うそー」「まじかー」とどよめく参加者。私もさっきまでそっち側にいたのに、一体どういうことだろう。本当に身体が言うことを聞かなくなった。え、というか催眠掛かってたの?とでも思いたくなるくらいのあっけなさだ。それが逆に怖い。

 でも安心して欲しい。私は夢幻さんを信じていたし、「こえ」はいつか返してもらえるだろうと分かっていた。催眠には、やはり術師への信頼が不可欠なのだ。私が「無理」とか「嫌」と思っていたら、催眠には掛からなかったと思う。催眠術師は道を敷くだけで、その上を歩くのは被験者なのだと改めて感じた。


催眠療法

催眠には幾つか種類がある。指をパチンと鳴らしたり、「はい、あなたはこうなる!」といった命令に従うのは、瞬間催眠だ。入眠も早いが、覚醒も早い。今まで私たちが夢幻さんに掛けられていたのも当然これに当たる。
一方「催眠療法」というものは、医療の現場にも使われているもので、入るのにも出るのにも比較的長い時間を要する。被験者の一人が瞬間催眠に掛かりにくいということで、夢幻さんは「じゃあ催眠療法を試しますね」と腕捲りをした。だが、先ほどの催眠に掛かったままの私は、横でぼんやり聞いているうちに、勝手にそっちの催眠にも掛かってしまったのだ。

催眠療法は物語形式である。夢幻さんは語りかけることで情景を想起させ、被験者を意識の底へと誘っていく。

「あなたは、あまり人のいない電車に乗っています。どこかの田舎へ向かっているのでしょうか、外に見えるのは穏やかな光景です……静かで、ぼおーっとしたまま揺られているうち、あなたは段々眠くなってきます。首が落ち込んでいきますが、身体は電車の振動に任せています。微かに揺れて、良い気持ちです……かたん、ことん、かたん……窓からは温かい陽が差してきて、身体に当たっています。ぽかぽか、ぽかぽか、気持ちが良いですね……あなたは、うつらうつらした状態で、その熱を感じています……」

横で聞いていた私も、肩から、ゆっくりと全身が温かくなっていく。陽を感じて、からだが温かい。この上なく安らかな気持ちだ。

「やがて、電車は停まります。電車のドアを抜けると、目の前にドアが現れます。開けると、そこにはあなただけの部屋があります。その部屋の中央には、地下に降りる階段があって、手すりは金色です。階段の横には、あなたの好きな大きな絵が掛けてあって、あなたはその中にとても入りたくなる。10数えると、あなたは地下室にはいりますよ…はい…10,9,8,7,6,5,4,3,2,1……

…… はい、地下室に降り立ちました。そこにはふわふわの布団が置いてあって、身体を沈めるとすごーく気持ちが良い。柔らかくて、良い気持ちになります。あなたはそこに寝転がっています。

今から100数えますね。100、数え終わる頃には、あなたは今まで感じたことのないほど良い気持ちになって目覚めます。頭はぼぉーっとしたままです。はい1,2,3,4,5……」

少し巻き舌ぎみに数を数えられる。所々ワープし、飛び越えながら、100がどんどん近付いてくる。

「……はい98,99,100! おはよー!」

目を開けた。

驚いた。

目が覚めたときの世界が、今までとまるっきり違う。

声が遠い。世界が遠い。

目を開いたまま夢を見ているような心地だった。目覚めた直後にしか感じられない、揺らいでいる夢の名残、あの世界の中で目を開いている感じだった。
心が袋状ならば、底の方を指で押し出し、中身を反転させたような感じ、と言えば良いのだろうか。裏返ったというか、普段内側にあるものが剥き出しになったような、危うい感覚だ。

そして体が重すぎて、立てない。力を入れることも思いが及ばない。ただ気持ちよくて、体の力が抜けていて、再び力を入れることなんて思いも寄らない。地下室のふかふかの布団で永遠に寝てしまいたいと思っている。全身がじんわりと温かいのは、優しく包まれているからだ。まるで緩やかに痺れた繭の中にいるようだった。ふわふわしていて、ふかふかしていて、出たくない。僅かな痺れは、弾力のあるトゲを押し付けられた時のように、不快でなく心地よい。

そして、あらゆる感覚が遠い。

鈍いのではなく、遠いのだ。
感覚器官の上に厚い繭がすっぽりと被せられていて、刺激が弱い。でも、そこにあることは分かる。声も聞こえる。ただ、この私が入った繭をつまみ上げられ、放られてしまったら、どうなってしまうのだろう、とぽつんと思った。

夢幻さんの声が聞こえる。催眠療法に掛かっている間は、目を閉じると瞼がピクピクと震えると言っている。私も試しに目を閉じてみた。見事に、瞼がピクピクする。こんなに分かりやすく催眠に掛かっていると判じられるものなのか。他人事ながらビックリである。

私は横で勝手に掛かっただけだったから、夢幻さんから指示を与えられていたら、果たしてどうなってしまっていたのだろうか。それを少し知りたくもあり、知れなかったのが残念でもあった。

帰り際。結局、掛けられた催眠は解かれてしまった。(当たり前だ)「催眠ときますね~」という言葉を、残念な気持ちで聞いたのを覚えている。
とはいえ、「目覚めたときにはすごくスッキリしている!」と暗示を掛けられたので、覚醒した時の快感は朝のそれをはるかに凌いでいた。あー!気持ち良いー! 疲れ取れてる!ここ最近の残業の重荷が肩から外れてる!と喝采をあげたくなった。


催眠のススメ

とまあ、私の催眠体験はざっとこんなところである。
今回体験して分かったことを簡単にまとめると、「催眠は掛かってみると結構面白い」、といえる。思い通りに動かなくなった自分の身体と、それを不思議だと感じている自分との分離は、奇妙な感覚だった。また、催眠療法は得てして心地好く、安らぐので、心の掃除をしたい人にはうってつけかもしれない。

ただ、ショーや飲み会という場でそれを感じるのは、ちょっと難しいかもしれない。今回も参加者が多かったので、一人一人が深い催眠に掛けられることはなかった。夢幻さんも、全員が催眠にかかりたい人たちだったから大変そうで、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、汗だくで話し続けていた。催眠に掛かりやすい資質の人と、そうでない人を等しく催眠に導くのは大変だと思う。また、「見られている」という緊張から、集中力を阻害されることもある。掛かっているように見せなきゃ、という思いから、無意識にか意識的にか、催眠状態を装っている人もいたように思う。

人目を気にせずに済むので、催眠は一対一で体験することをお勧めする。その方が催眠術師も、あなたの様子を見ながら催眠を掛けてくれるので、より深い催眠に掛かることが出来るだろう。

まあ中々そんな機会を見つけるのは難しいと思うので、手短に楽しみたい人は、5円玉を揺らしてみると良い。

それではそろそろお目覚めの時間のようです。

さようなら。

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「怪しい 画像」と検索して出てきたフリー素材

 

十二国記の魅力とは? ネタバレなしで語り尽くす  ~『白銀の墟 玄の月』刊行に寄せて~

はじめに

 「好き」にも色々なレベルがあるけれど、「一個も文句がないくらい好き」と言える本は、私の中ではそう多くない。しかしその中でも十二国記は、絶対に外すことが出来ない一冊だ。私が作家志望になったのは、この本との出会いがあったからだと言っても過言ではない。

 でも、十二国記はシリーズものだから長い。今から読もうかと考えている人にとっては、まあ腰が重たいだろう。あんなに長いのを苦労して読んで、つまらなかったらイヤである。

 

 だからこのブログでは、私の思う十二国記の魅力と、読むべき理由をお話ししていく。これから読む人は、読むべきかどうかという判断の参考に、既にファンの方は、「こういう魅力もあったのか」という発見に用いていただきたい。ちなみに私が好きな小説も随所に紹介したので、十二国記シリーズが好きな人はハマる筈である。

 このブログでの魅力の紹介の順序としては、物語の「箱」外側から、「中身」内側へと進んでいく。料理に例えるなら上のようになろうということで、目次を振った。

 本が売れない時代、一〇〇〇万部を刊行している十二国記の人気は異常とも言えるが、どうしてこの本にそれが達成できたのかお話ししたい。これから小説を書こうとする人にとっても、参考となるものは多いだろう。

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1.香り

 前提として共有しておきたいのが、この十二国記が中華風の世界観だということである。世界の雰囲気や用語の根底には中国の土台があり、カタカナの固有名詞は出てこない。

 中華ファンタジーなら市場に溢れかえっているが、このシリーズが一線を画すのは、その演出の一環となっている文章の才である。

 とにかく文章がカッコ良い。無駄がない。だらだらと長く書くところを、ズバッと核心だけくり抜くような筆である。漢文風味のカッチリとした風合い、磨き抜かれた剣のような、スパッとした切れ味の良さ、それでいて香り立つ雅な色気と、少ない言葉に広がる妙味。小野不由美の文章なくしては、この十二国記の世界観は表せないし、現そうとしても陳腐になるだけだろう。

 私は吉川英治の『三国志』を読んだ時、あまりの美しさに度肝を抜かれたのだが、おそらくこの二人の共通点は「漢文」というジャンルを意識していることにある。小野不由美の文章が好きな人は、吉川英治の『三国志』や『宮本武蔵』もきっとハマると思うので、是非ご一読いただければと思う。

 

 十二国記がどんな文章なのか気になる方は、是非本編をお読みいただきたいのだが、このブログでも少しだけ紹介できればと思う。次に載せるのは、「漢文らしい」文章である。

 

「おおい」

 無表情に言った、その男の顔、太い首と隆起した肩の線、逞しく長い腕、鳩尾からを覆った鱗と獣の半身と、地についた足は鳥の蹴爪、一拍遅れて地を叩いた尾は長い蛇。

(『図南の翼』講談社、2009年 298ページ)

 

 何を以て「漢文らしい」とするかは意見が分かれるかもしれないが、「無駄がない」というのは大事な要素かもしれない。普通の口語体に沿うなら、この77文字の情報量は120字くらいに膨れ上がり、文章も三文くらいに分けなければならないだろう。無駄な「だった」「である」や指示語などを省くことで、音のそのままの美しさや臨場感を味わえる。

 また、セリフ回しも見どころの一つだ。

 

「……口汚くて申し訳ないが、そういう見解のあることは御承知願いたい。私は貴女をそこまで見下げはせぬが、他国の王や宰輔(さいほ)を頻繁に王宮に入れることは承服できない。戴の将軍を匿い、そうやって戴の宰輔を保護するが、貴女は自分が慶の王であることをお忘れではないか。これほど他国の王が出入りするのは何故(なにゆえ)か。貴女は慶を他国に譲り渡すおつもりか」

(『黄昏の岸 暁の天』講談社、2009年 409ページ)

 

 小野不由美はホラー作家でもあるので、臨場感のある風景描写も得意である。

 

 雪が降っていた。

 重い大きな雪片が沈むように降りしきっていた。

 天を見上げれば空は白、そこに灰色の薄い影が無数に滲む。染み入る速度で視野を横切り、目線で追うといつの間にか白い。

 彼は肩に軟着陸したひとひらを見る。綿毛のような結晶が見えるほど、大きく重い雪だった。次から次へ、肩から腕へ、そうして真っ赤になった掌に留まっては、水の色に透けて溶けていく。

(『風の海 迷宮の岸』講談社、二〇〇九年 八ページ)

 

 こうした文章の魅力と作りこまれた世界観が相まって、十二国記の硬派な世界は演出されている。まるで架空の歴史小説を読んでいるようでもある。作り込まれた世界の裏側には膨大な知識量が透けているからまた奥深い。没入しても壊れない安心感がある。

 十二国記の随所の文章に滲み出る「漢文らしさ」は、中華風の世界観を引き立てるのに大きく一役を買っているのだ。

 

2.舌触り

 十二国記の良さはまだまだある。

 私も大学で、曲がりなりにも少々漢籍に係わる勉強をしてきたから分かるのだが、昔の中国の人のあるあるとして、「故事を引用しがち」というのがある。現在進行中の話をしている時も、昔はこんな故事があった、と引きながら話す。自分の主張の論拠として故事を使うのだ。あと、「一人の英雄がやった伝説的な振る舞い、諺(ことわざ)になって語り継がれがち」も良くある。この諺は次の英雄のモチベーションになるのである。

 十二国記にも、故事が出てくる。たとえば「才国遵帝(じゅんてい)の故事」である。王を失い、国土が荒れて困窮した範を救うため、隣の才の遵帝は範に軍を派遣した。遵帝には範を侵略する意図はなく、単純に民の保護のためだったのだが、天綱(天の定め)からは侵略と見なされ、遵帝と、彼を選んだ麒麟(きりん)は命を落とした、という話である。この故事が物語の核になっていくので、そこも中国的である。

 また、戴の王である男(この人物は『風の海』を読み終わるまで明かされないので、未読の人を慮って名は伏せておく)にもエピソードがある。「轍囲(てつい)の盾」、或いは「白綿の盾」とも呼び表すものだ。(どうでも良いが、この「二通りの呼び方がある」というのも中国あるあるである)この男の先王の搾取に耐えかねて、税の徴収を撥ねのけた轍囲の民は、州軍の手にも余ったため、王の軍が派遣されることになった。事態の収拾に当たることになった男は、兵士が剣を持って轍囲に入ることを許さず、携行を許したのは盾のみだった。原文が優れているので、以下そのまま引用したいと思う。

 

 盾は堅牢な木によって作らせ、内側には鋼を貼ることを許したが、外にこれを貼ることを許さなかった。血気逸って盾をもって殴りかかる者が合ったときに、対する民を慮って、盾の外には厚く綿羊を貼らせた。綿は白のまま、もしも命に背いて盾を武器をして使い、民に怪我をさせ、この綿に一点たりとも血がつけば厳罰に処すと宣じた。

(『黄昏の岸 暁の天』講談社、2009年 89ページ)

 

 こんな格好良いことする!? と問いたくなるくらいのエピソードである。この男は本当のカリスマで、政治でも軍事でも天才的な手腕を持っており、まるでカエサルのようなのだが、新刊の『白銀の墟 玄の月』は彼に関わってくる話なので、興味を持った人は是非『風の海  迷宮の岸』、『黄昏の岸 暁の天』、『丕緒の鳥』の「冬栄」を読み、新刊を読んで欲しい。シリーズにも一応順番があるが、世界観の説明などは『風の海』を読めば大体分かると思うので、新刊までの最短ルートを通りたければ、今挙げた本をこの順番で読むことをオススメする。

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 ファンタジーが、ただの空想のお花畑になるか、重厚なリアリティーを持つかを分けるカギがある。

 中華風ファンタジーや和風ファンタジー、色々あるが、ただ漢語を使ったり、和室に住めば成立するものではない。ましてや妖精と剣と魔法の登場は、ファンタジーを成立させる真髄ではない。

 欠かしてはならないのは、そこに住む人間の価値観と、その演出の手法だ。十二国記は、価値観の下地まで中国を手本としていながら、オリジナルの要素を付け足すことで、唯一無二のファンタジーになっている。中国要素と、その手法を借りることによって溶け合わされた独自の要素が、見事に調和しているのである。換骨奪胎とでも言うのだろうか、作品世界の隅々まで中国の影が染みているのに、寄りかかりすぎていない。このバランス感覚があるファンタジーは稀有だと思う。

 「故事を用いる」というのは手法の一つに過ぎないが、このように中国でも伝統的に踏襲されてきたやり方を使うことによって、小野不由美は場の空気にリアリティーを持たせている。だからこそ、読者は深く世界の中に誘われる。

 また、価値観や「場のリアリティー」の描き方は、上橋菜穂子もまた桁違いな才能を持っているので、興味があればこの人の作品もご一読をお願いしたい。オススメのシリーズを挙げたいが、全てがオススメで選ぶことなど出来ないので、どうか全部読んでください。

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3.風味

 次に挙げる魅力は、十二国記が何故これだけ爆発的な人気を誇っているかという問いの、答えになるかもしれない。

 私は先ほど十二国記の文章を絶賛したけれど、一方、文章が重厚に過ぎるため、正直読みにくいと感じる人も多いとも思う。中学生だった私は、よく分からない単語が出てくるたびに辞書で調べた。「登極」「禅譲」「折伏」「不羈の民」……こういう単語がイヤな人もいるだろう。

 世界観でも、難しいところがある。国の制度や官名、度量衡、固有名詞の多さ。おそらくファンタジーが苦手な人は此処で躓くといった要素と、十二国記は無縁ではない。

 それでも、十二国記は幅広い人気がある。一体何故なのか。

 

 例えば小難しいのが好きな人にとって美味しいのは、世界観の作り込みや難読な漢字だ。或いは二次創作をする人などは、キャラクターに魅せられている。十二国記に出てくるキャラクターはあまりにも魅力的だ。自分の弱さや汚さに気付き、それを恥として臆しながらも、使命に向かって突き進む陽子、幼いことに気兼ねしながらも、ひたむきに成長しようとする不器用な泰麒(たいき)、飄然(ひょうぜん)として、とても王とは思えない振る舞いをするが、接する者に気を置かせず、実は国のことを誰よりも思っている、明晰な頭脳と強い断行力の持ち主、尚隆(しょうりゅう)。まだまだ数え切れない。

 他にも、純粋にファンタジーが好きな人ならば、冒険が用意されている。『月の影』での陽子の流浪の一人旅や、『図南の翼』の珠晶の黄海(砂漠)での旅は、心躍るものだろう。歴史が変わるような熱いシーンも、今まで忘れていた大事なことを気付かせてくれるような感動の場面も、仲間との団結も全部ある。

 

 十二国記の魅力。それは、「多面的に楽しめる」という点にある。

 

 これは創作物の全てに共通することなのだが、優れた作品は必ず、楽しみ方が豊富である。色々な人間のツボを押さえるような魅力があるのだ。こういう作品は強い。多様な解釈が出来る作品は文学史に名を残すことが多いが、多様な楽しみ方が出来る作品は、広い層の読者を獲得する。この本がこれほど多くの人に愛されているのは、楽しみ方の種類が多いからだと私は思う。

 

4.コク

 前章では、多くの人に十二国記が受け入れられている理由を述べたので、この章では、私の思う魅力について語りたいと思う。本の後ろの解説程度とはいえ、少し作品の中身に触れるので、「まっさらな状態で読みたい!」という人は、この章を丸ごとスクロールして欲しい。

 

 私の思う読みどころは、人間の描き方と、それが動かす社会の複雑さである。

 例えば『風の万里 黎明の空』では、三人の少女の「不幸」について語られる。日本から流され、言葉も通じない世界で下女として働かなければならない鈴の不幸、王だった父が臣下に謀殺され、貧しい里に追いやられていじめられる祥瓊(しょうけい)の不幸、こちらの常識が何も分からない上、臣下に侮られて思い通りに事が進められない女王陽子の不幸。鈴と祥瓊は、旅の中で出会った人間によって、この「不幸」の向き合い方、自分の見つめ方を知っていくのだが、そのシーンに胸を揺さぶられた。避けていた現実に向き合うことで、前に進めるようになる二人が好きだ。そして、「傀儡(かいらい=操り人形)なんだ」と言い、自身の無力に苦悩しながら、それでも戦い、立ち向かうことを選ぶ陽子がアツい。そしてこの巻のエンド、陽子の下した一つの決断もまた、アツい。

 『華胥(かしょ)の夢』は、民に厚く支持され、名君だと予想されていた砥尚という男の失道について描かれるのだが、これもまた心に残る作品だった。現代のテレビを見るに付けても、私は時折「華胥の夢」を思い出す。

 『黄昏の岸』でも、傑物の王に「急進的で、怖い」と訳もなく不安を抱く人々が出てくるけれど、これも人間の一側面が描かれている。一見、天才的な人物が治めているのだから国も丸くなるだろうと思うのだけど、人間が集まれば考えることもバラバラな訳で、中々そう上手いこといかない。「あいつだけが王になって面白い訳がないだろう」と、他人の中に自分の悪意を見て、邪推する人間もいる。チャップリンは、「集団としての人間は、頭のないモンスターだ」と言っているが、私の好きな作家は、この「頭のないモンスター」の描き方が悉く上手い。十二国記もまた、複合体となった人間心理の抉り方が巧みで、はっとさせられる。

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 十二国記を読んでいる間の「感じ」を説明するのは難しい。私が時折感じるものを強いて表現しようとすれば、まるで「虚海」を覗き込んだよう、と言えるかもしれない。十二国を取り巻く海は「虚海」と呼ばれ、浅瀬でも、深海のように濃い色をしていて、夜光虫のような光が点在しているという。十二国記を読んでいる間は、崖の上からその「虚海」を見下ろすような、深く、静謐な心地になる。話が進むにつれて胸がいっぱいになって、その海がじわじわと澄んでいき、温かく変わっていく。「虚海」の水が完全に透明になった時、打ち寄せる波にいつしか身は溶け合っている。

 そういう感覚になった時、私は物語に深く感動している。

 

5.後味

 伊坂幸太郎の小説の中で、忘れられない言葉がある。『モダンタイムス』で、伊坂幸太郎本人を模したと思われる作家が言った言葉だ。

 

(前略)

「俺が小説を書いても世界は変わらない。いいか、小説ってのは、大勢の人間の背中をわーっと押して、動かすようなものじゃねえんだよ。音楽みてえに、集まったみんなを熱狂させてな、さてそら、みんなで何かをやろうぜ、なんてことはできねえんだ。役割が違う。小説はな、一人一人の人間の身体に沁みていくだけだ」

「沁みていく? 何がどこに」

「読んだ奴のどこか、だろ。じわっと沁みていくんだよ。人を動かすわけじゃない。ただ、沁みて、溶ける」

伊坂幸太郎『モダンタイムス』(下)講談社、2011年 192ページ)

 

 言い得て妙だなと思い、小説を書く時も、私はよくこの言葉を思い出してしまう。「この作品と会って人生が変わりました」というのは本当にあることだと思うけれど、基本的には、小説は読者の生活を劇的に変化させることはない。それでも、読んだ後には何かが残っている。それが小説の「後味」だと思う。

 中学生だった私が特に衝撃を受けたのは、『魔性の子』だった。『魔性の子』では、「何処ともしれないが、何処かへ帰りたい」という、故郷喪失者の郷愁の念が描かれる。故郷とはいわゆる「ふるさと」ではなく、「心の中に存在している桃源郷」のようなものだ。この念を強く持った広瀬という主人公が、事故によって日本に流されてしまった泰麒と出会う物語だ。

 

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 泰麒は、日本が本当に在るべき場所ではない。彼は「異質」で、周りとは違う。それに対し広瀬は、いわば現実逃避の一環として「帰りたい」と思っている。ラスト、帰る場所を持つ泰麒と、帰る場所を持たない広瀬との別離の場面が、とても印象的だった。

 全員にとってそうなのかは分からないが、多かれ少なかれ「帰りたい」という気持ちは人の中にあると思う。こんな現実から逃げたい。何処か、心地の良い場所に行きたい。胸が躍るような冒険が用意されていて、温かく迎え入れてくれる場所に。

 私も、少なからず「帰りたい」という気持ちを持っていたので、この作品を読んだとき、ショックを受けた。私は「帰れない」側の人間だ、と気付いてしまったから。

 でも、というか、だからこそ、というか。私は十二国記の世界に惹かれるのだと思う。体はこの世にありながら、本は夢のような世界を魅せてくれる。それは時には残酷で、幸せは約束されていないし、多くの人が貧困の犠牲になっている。それでもやはり魅力的で、「行きたい」と思える場所だ。

 そんな世界に浸った後、「生きたい」と思う。私も頑張らなければ。陽子のように、逃げないで努力をしなければ。そう思い、物語は私の心に根付いていく。

 十二国記が広い世代に受け入れられている理由の一つは、ここにもある。世界観の細部がいかに複雑だろうと、話自体の「核」は常に明快で、多くの人の心に響くのだ。

 十二国記は、「生きる」こと、「立ち向かう」ことに力を与えてくれる作品だ。これは、今の人々が求めている希望でもある。十二国記を読めば、つらいことの数々に埋もれた「生」の本来の強い輝きを、思い出させてくれるのだ。

 そしてそれは、人々の心に「沁みて」いき、それぞれの人生と溶け合っていく。十二国記の物語には、そんな後味がある。

 

おわりに

 ファンタジーと聞けば、厭世的だと思う人間も少なからずいるだろう。確かにファンタジーを読んでいる時、人は必ずこう思うだろう。

 自分も、この世界の一員であれば良かったのに、と。

 どうして自分は、こんな退屈な世界に閉じこめられているのだろう。冒険がしたい、玉座を治めたい、格好良い人たちに囲まれたい。その願望を満たしてくれるのも、もちろん、ファンタジーの醍醐味の一つではある。

 だけど本当に優れた作品は、そこで終わらない。「帰りたい」という欲求を満たしただけの作品は、時と共に忘れられていく。事故に遭って異世界転生したい、かわいい妖精に囲まれたい、という気持ちを否定するつもりはないが、所詮その欲望を越えられない作品に強い力は多分ない。

 厭世(えんせい)的な気持ちや願望、心の何処かに根付いた郷愁を超越して、この世界に紐付き、はっとするほど美しい、珠のような光を魅せてくれる。そういう作品は少ない。だからこそ十二国記は、ファンタジーの巨塔の一つになっているのだと思う。

 

 断っておきたいのは、「忘れられない作品」というのは万人に共通するものではないということだ。

 上橋菜穂子の言葉だったか、彼女が引用した言葉だったか、詳しい出典は忘れてしまったが、「物語ること、生きること」の講演で聞いた印象深い言葉がある。

「優れた作品というのは、一部の熱狂的なファンを生み、それ以外の人間にとっては、何とも感じられないものである」

 散々絶賛しておいて何だが、もしあなたが十二国記に私ほど感動することが出来なくても、感受性を疑う必要はない。あなたには、あなたに合った素晴らしい作品がきっとある。そんな小説と出会えることを、私は切に願ってやまない。

 まだ読んでいないあなたには、その一冊が十二国記である可能性に賭けて、是非一度、手に取って欲しいと思う。

 

(新潮社公式HP)

https://www.shinchosha.co.jp/12kokuki/

 

おまけに

 前章で、十二国記の紹介は終了した。だが、話しているうちに何だか興が乗ってきてしまったので、最後に、作家志望の端くれたる私の目標を話したい。

 私は、小野不由美さん、上橋菜穂子さんの二人を敬愛している。正直、『鹿の王』を読むまでは、「いつかこの二人を越えるんだ」という僭越な野望に身を焦がしていたこともある。だけど、「無理だ」と思った。越えるなんて身の程知らずだったし、この二人と同じ道を歩いていたのでは、追いつくことすら出来ない。それに二人の素晴らしい業績を軽んじるのは嫌だったので、そう思うのはやめることにした。

 でも、私は違うアプローチの方法で、ファンタジーを描いていきたいと思った。「二人みたいなファンタジーが書きたい」から、「二人には書けないようなファンタジーを書きたい」に変わったのだ。私がやりたいのは、二人を越えることではない。日本のファンタジー界を揺るがすような、異色のファンタジーを生み出すことだ。

 小野不由美さんも、今までになかったファンタジーを書くことで、日本のファンタジー界に衝撃を与えた。今、これだけファンタジー小説がひしめき合っている理由の一つに、十二国記のような優れた小説の影響があるのは間違いがないだろう。私は、そういう礎になるようなファンタジーが書きたい。

 

 今ファンタジー界はレッドオーシャンで、今更影響を与えるのは難しいかもしれないけれど、意外とそうでもない。多くは似通った世界観で、いわば「同じ大陸」の中にいる。私はその中で、全く新しい、ファンタジーの大陸を切り拓きたいのだ。

 私の試みが成功するかどうかの判断は私には下せないので、こんなことを語ったところで所詮大言壮語である。でもいつか、そんな小説を世に届けられたらと思う。私が感じたような深い感動を、新鮮な驚きを与え、心を揺さぶりたい。劇的な変化を呼び起こせなかったとしても、何かの折に、ふと思い出してもらえるような小説を。

 

 今の私は、私が敬愛してやまない作家の方々に到底及ばないし、これから努力したところで、肩を並べられる保障などない。

 そんな私でも小説を書きたいと思うのは、描きたい世界があるからだ。彼らのような、素晴らしい目標と出会うことが出来たからだ。

歴史の中では、「英雄は次の英雄を生む」――つまり、昔の英雄が新しい英雄の目標になっていくのだが、私もまた、彼らのような「英雄」の一人になりたい。

 それが私の夢で、生き甲斐なのだ。