十二国記の魅力とは? ネタバレなしで語り尽くす  ~『白銀の墟 玄の月』刊行に寄せて~

はじめに

 「好き」にも色々なレベルがあるけれど、「一個も文句がないくらい好き」と言える本は、私の中ではそう多くない。しかしその中でも十二国記は、絶対に外すことが出来ない一冊だ。私が作家志望になったのは、この本との出会いがあったからだと言っても過言ではない。

 でも、十二国記はシリーズものだから長い。今から読もうかと考えている人にとっては、まあ腰が重たいだろう。あんなに長いのを苦労して読んで、つまらなかったらイヤである。

 

 だからこのブログでは、私の思う十二国記の魅力と、読むべき理由をお話ししていく。これから読む人は、読むべきかどうかという判断の参考に、既にファンの方は、「こういう魅力もあったのか」という発見に用いていただきたい。ちなみに私が好きな小説も随所に紹介したので、十二国記シリーズが好きな人はハマる筈である。

 このブログでの魅力の紹介の順序としては、物語の「箱」外側から、「中身」内側へと進んでいく。料理に例えるなら上のようになろうということで、目次を振った。

 本が売れない時代、一〇〇〇万部を刊行している十二国記の人気は異常とも言えるが、どうしてこの本にそれが達成できたのかお話ししたい。これから小説を書こうとする人にとっても、参考となるものは多いだろう。

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1.香り

 前提として共有しておきたいのが、この十二国記が中華風の世界観だということである。世界の雰囲気や用語の根底には中国の土台があり、カタカナの固有名詞は出てこない。

 中華ファンタジーなら市場に溢れかえっているが、このシリーズが一線を画すのは、その演出の一環となっている文章の才である。

 とにかく文章がカッコ良い。無駄がない。だらだらと長く書くところを、ズバッと核心だけくり抜くような筆である。漢文風味のカッチリとした風合い、磨き抜かれた剣のような、スパッとした切れ味の良さ、それでいて香り立つ雅な色気と、少ない言葉に広がる妙味。小野不由美の文章なくしては、この十二国記の世界観は表せないし、現そうとしても陳腐になるだけだろう。

 私は吉川英治の『三国志』を読んだ時、あまりの美しさに度肝を抜かれたのだが、おそらくこの二人の共通点は「漢文」というジャンルを意識していることにある。小野不由美の文章が好きな人は、吉川英治の『三国志』や『宮本武蔵』もきっとハマると思うので、是非ご一読いただければと思う。

 

 十二国記がどんな文章なのか気になる方は、是非本編をお読みいただきたいのだが、このブログでも少しだけ紹介できればと思う。次に載せるのは、「漢文らしい」文章である。

 

「おおい」

 無表情に言った、その男の顔、太い首と隆起した肩の線、逞しく長い腕、鳩尾からを覆った鱗と獣の半身と、地についた足は鳥の蹴爪、一拍遅れて地を叩いた尾は長い蛇。

(『図南の翼』講談社、2009年 298ページ)

 

 何を以て「漢文らしい」とするかは意見が分かれるかもしれないが、「無駄がない」というのは大事な要素かもしれない。普通の口語体に沿うなら、この77文字の情報量は120字くらいに膨れ上がり、文章も三文くらいに分けなければならないだろう。無駄な「だった」「である」や指示語などを省くことで、音のそのままの美しさや臨場感を味わえる。

 また、セリフ回しも見どころの一つだ。

 

「……口汚くて申し訳ないが、そういう見解のあることは御承知願いたい。私は貴女をそこまで見下げはせぬが、他国の王や宰輔(さいほ)を頻繁に王宮に入れることは承服できない。戴の将軍を匿い、そうやって戴の宰輔を保護するが、貴女は自分が慶の王であることをお忘れではないか。これほど他国の王が出入りするのは何故(なにゆえ)か。貴女は慶を他国に譲り渡すおつもりか」

(『黄昏の岸 暁の天』講談社、2009年 409ページ)

 

 小野不由美はホラー作家でもあるので、臨場感のある風景描写も得意である。

 

 雪が降っていた。

 重い大きな雪片が沈むように降りしきっていた。

 天を見上げれば空は白、そこに灰色の薄い影が無数に滲む。染み入る速度で視野を横切り、目線で追うといつの間にか白い。

 彼は肩に軟着陸したひとひらを見る。綿毛のような結晶が見えるほど、大きく重い雪だった。次から次へ、肩から腕へ、そうして真っ赤になった掌に留まっては、水の色に透けて溶けていく。

(『風の海 迷宮の岸』講談社、二〇〇九年 八ページ)

 

 こうした文章の魅力と作りこまれた世界観が相まって、十二国記の硬派な世界は演出されている。まるで架空の歴史小説を読んでいるようでもある。作り込まれた世界の裏側には膨大な知識量が透けているからまた奥深い。没入しても壊れない安心感がある。

 十二国記の随所の文章に滲み出る「漢文らしさ」は、中華風の世界観を引き立てるのに大きく一役を買っているのだ。

 

2.舌触り

 十二国記の良さはまだまだある。

 私も大学で、曲がりなりにも少々漢籍に係わる勉強をしてきたから分かるのだが、昔の中国の人のあるあるとして、「故事を引用しがち」というのがある。現在進行中の話をしている時も、昔はこんな故事があった、と引きながら話す。自分の主張の論拠として故事を使うのだ。あと、「一人の英雄がやった伝説的な振る舞い、諺(ことわざ)になって語り継がれがち」も良くある。この諺は次の英雄のモチベーションになるのである。

 十二国記にも、故事が出てくる。たとえば「才国遵帝(じゅんてい)の故事」である。王を失い、国土が荒れて困窮した範を救うため、隣の才の遵帝は範に軍を派遣した。遵帝には範を侵略する意図はなく、単純に民の保護のためだったのだが、天綱(天の定め)からは侵略と見なされ、遵帝と、彼を選んだ麒麟(きりん)は命を落とした、という話である。この故事が物語の核になっていくので、そこも中国的である。

 また、戴の王である男(この人物は『風の海』を読み終わるまで明かされないので、未読の人を慮って名は伏せておく)にもエピソードがある。「轍囲(てつい)の盾」、或いは「白綿の盾」とも呼び表すものだ。(どうでも良いが、この「二通りの呼び方がある」というのも中国あるあるである)この男の先王の搾取に耐えかねて、税の徴収を撥ねのけた轍囲の民は、州軍の手にも余ったため、王の軍が派遣されることになった。事態の収拾に当たることになった男は、兵士が剣を持って轍囲に入ることを許さず、携行を許したのは盾のみだった。原文が優れているので、以下そのまま引用したいと思う。

 

 盾は堅牢な木によって作らせ、内側には鋼を貼ることを許したが、外にこれを貼ることを許さなかった。血気逸って盾をもって殴りかかる者が合ったときに、対する民を慮って、盾の外には厚く綿羊を貼らせた。綿は白のまま、もしも命に背いて盾を武器をして使い、民に怪我をさせ、この綿に一点たりとも血がつけば厳罰に処すと宣じた。

(『黄昏の岸 暁の天』講談社、2009年 89ページ)

 

 こんな格好良いことする!? と問いたくなるくらいのエピソードである。この男は本当のカリスマで、政治でも軍事でも天才的な手腕を持っており、まるでカエサルのようなのだが、新刊の『白銀の墟 玄の月』は彼に関わってくる話なので、興味を持った人は是非『風の海  迷宮の岸』、『黄昏の岸 暁の天』、『丕緒の鳥』の「冬栄」を読み、新刊を読んで欲しい。シリーズにも一応順番があるが、世界観の説明などは『風の海』を読めば大体分かると思うので、新刊までの最短ルートを通りたければ、今挙げた本をこの順番で読むことをオススメする。

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 ファンタジーが、ただの空想のお花畑になるか、重厚なリアリティーを持つかを分けるカギがある。

 中華風ファンタジーや和風ファンタジー、色々あるが、ただ漢語を使ったり、和室に住めば成立するものではない。ましてや妖精と剣と魔法の登場は、ファンタジーを成立させる真髄ではない。

 欠かしてはならないのは、そこに住む人間の価値観と、その演出の手法だ。十二国記は、価値観の下地まで中国を手本としていながら、オリジナルの要素を付け足すことで、唯一無二のファンタジーになっている。中国要素と、その手法を借りることによって溶け合わされた独自の要素が、見事に調和しているのである。換骨奪胎とでも言うのだろうか、作品世界の隅々まで中国の影が染みているのに、寄りかかりすぎていない。このバランス感覚があるファンタジーは稀有だと思う。

 「故事を用いる」というのは手法の一つに過ぎないが、このように中国でも伝統的に踏襲されてきたやり方を使うことによって、小野不由美は場の空気にリアリティーを持たせている。だからこそ、読者は深く世界の中に誘われる。

 また、価値観や「場のリアリティー」の描き方は、上橋菜穂子もまた桁違いな才能を持っているので、興味があればこの人の作品もご一読をお願いしたい。オススメのシリーズを挙げたいが、全てがオススメで選ぶことなど出来ないので、どうか全部読んでください。

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3.風味

 次に挙げる魅力は、十二国記が何故これだけ爆発的な人気を誇っているかという問いの、答えになるかもしれない。

 私は先ほど十二国記の文章を絶賛したけれど、一方、文章が重厚に過ぎるため、正直読みにくいと感じる人も多いとも思う。中学生だった私は、よく分からない単語が出てくるたびに辞書で調べた。「登極」「禅譲」「折伏」「不羈の民」……こういう単語がイヤな人もいるだろう。

 世界観でも、難しいところがある。国の制度や官名、度量衡、固有名詞の多さ。おそらくファンタジーが苦手な人は此処で躓くといった要素と、十二国記は無縁ではない。

 それでも、十二国記は幅広い人気がある。一体何故なのか。

 

 例えば小難しいのが好きな人にとって美味しいのは、世界観の作り込みや難読な漢字だ。或いは二次創作をする人などは、キャラクターに魅せられている。十二国記に出てくるキャラクターはあまりにも魅力的だ。自分の弱さや汚さに気付き、それを恥として臆しながらも、使命に向かって突き進む陽子、幼いことに気兼ねしながらも、ひたむきに成長しようとする不器用な泰麒(たいき)、飄然(ひょうぜん)として、とても王とは思えない振る舞いをするが、接する者に気を置かせず、実は国のことを誰よりも思っている、明晰な頭脳と強い断行力の持ち主、尚隆(しょうりゅう)。まだまだ数え切れない。

 他にも、純粋にファンタジーが好きな人ならば、冒険が用意されている。『月の影』での陽子の流浪の一人旅や、『図南の翼』の珠晶の黄海(砂漠)での旅は、心躍るものだろう。歴史が変わるような熱いシーンも、今まで忘れていた大事なことを気付かせてくれるような感動の場面も、仲間との団結も全部ある。

 

 十二国記の魅力。それは、「多面的に楽しめる」という点にある。

 

 これは創作物の全てに共通することなのだが、優れた作品は必ず、楽しみ方が豊富である。色々な人間のツボを押さえるような魅力があるのだ。こういう作品は強い。多様な解釈が出来る作品は文学史に名を残すことが多いが、多様な楽しみ方が出来る作品は、広い層の読者を獲得する。この本がこれほど多くの人に愛されているのは、楽しみ方の種類が多いからだと私は思う。

 

4.コク

 前章では、多くの人に十二国記が受け入れられている理由を述べたので、この章では、私の思う魅力について語りたいと思う。本の後ろの解説程度とはいえ、少し作品の中身に触れるので、「まっさらな状態で読みたい!」という人は、この章を丸ごとスクロールして欲しい。

 

 私の思う読みどころは、人間の描き方と、それが動かす社会の複雑さである。

 例えば『風の万里 黎明の空』では、三人の少女の「不幸」について語られる。日本から流され、言葉も通じない世界で下女として働かなければならない鈴の不幸、王だった父が臣下に謀殺され、貧しい里に追いやられていじめられる祥瓊(しょうけい)の不幸、こちらの常識が何も分からない上、臣下に侮られて思い通りに事が進められない女王陽子の不幸。鈴と祥瓊は、旅の中で出会った人間によって、この「不幸」の向き合い方、自分の見つめ方を知っていくのだが、そのシーンに胸を揺さぶられた。避けていた現実に向き合うことで、前に進めるようになる二人が好きだ。そして、「傀儡(かいらい=操り人形)なんだ」と言い、自身の無力に苦悩しながら、それでも戦い、立ち向かうことを選ぶ陽子がアツい。そしてこの巻のエンド、陽子の下した一つの決断もまた、アツい。

 『華胥(かしょ)の夢』は、民に厚く支持され、名君だと予想されていた砥尚という男の失道について描かれるのだが、これもまた心に残る作品だった。現代のテレビを見るに付けても、私は時折「華胥の夢」を思い出す。

 『黄昏の岸』でも、傑物の王に「急進的で、怖い」と訳もなく不安を抱く人々が出てくるけれど、これも人間の一側面が描かれている。一見、天才的な人物が治めているのだから国も丸くなるだろうと思うのだけど、人間が集まれば考えることもバラバラな訳で、中々そう上手いこといかない。「あいつだけが王になって面白い訳がないだろう」と、他人の中に自分の悪意を見て、邪推する人間もいる。チャップリンは、「集団としての人間は、頭のないモンスターだ」と言っているが、私の好きな作家は、この「頭のないモンスター」の描き方が悉く上手い。十二国記もまた、複合体となった人間心理の抉り方が巧みで、はっとさせられる。

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 十二国記を読んでいる間の「感じ」を説明するのは難しい。私が時折感じるものを強いて表現しようとすれば、まるで「虚海」を覗き込んだよう、と言えるかもしれない。十二国を取り巻く海は「虚海」と呼ばれ、浅瀬でも、深海のように濃い色をしていて、夜光虫のような光が点在しているという。十二国記を読んでいる間は、崖の上からその「虚海」を見下ろすような、深く、静謐な心地になる。話が進むにつれて胸がいっぱいになって、その海がじわじわと澄んでいき、温かく変わっていく。「虚海」の水が完全に透明になった時、打ち寄せる波にいつしか身は溶け合っている。

 そういう感覚になった時、私は物語に深く感動している。

 

5.後味

 伊坂幸太郎の小説の中で、忘れられない言葉がある。『モダンタイムス』で、伊坂幸太郎本人を模したと思われる作家が言った言葉だ。

 

(前略)

「俺が小説を書いても世界は変わらない。いいか、小説ってのは、大勢の人間の背中をわーっと押して、動かすようなものじゃねえんだよ。音楽みてえに、集まったみんなを熱狂させてな、さてそら、みんなで何かをやろうぜ、なんてことはできねえんだ。役割が違う。小説はな、一人一人の人間の身体に沁みていくだけだ」

「沁みていく? 何がどこに」

「読んだ奴のどこか、だろ。じわっと沁みていくんだよ。人を動かすわけじゃない。ただ、沁みて、溶ける」

伊坂幸太郎『モダンタイムス』(下)講談社、2011年 192ページ)

 

 言い得て妙だなと思い、小説を書く時も、私はよくこの言葉を思い出してしまう。「この作品と会って人生が変わりました」というのは本当にあることだと思うけれど、基本的には、小説は読者の生活を劇的に変化させることはない。それでも、読んだ後には何かが残っている。それが小説の「後味」だと思う。

 中学生だった私が特に衝撃を受けたのは、『魔性の子』だった。『魔性の子』では、「何処ともしれないが、何処かへ帰りたい」という、故郷喪失者の郷愁の念が描かれる。故郷とはいわゆる「ふるさと」ではなく、「心の中に存在している桃源郷」のようなものだ。この念を強く持った広瀬という主人公が、事故によって日本に流されてしまった泰麒と出会う物語だ。

 

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 泰麒は、日本が本当に在るべき場所ではない。彼は「異質」で、周りとは違う。それに対し広瀬は、いわば現実逃避の一環として「帰りたい」と思っている。ラスト、帰る場所を持つ泰麒と、帰る場所を持たない広瀬との別離の場面が、とても印象的だった。

 全員にとってそうなのかは分からないが、多かれ少なかれ「帰りたい」という気持ちは人の中にあると思う。こんな現実から逃げたい。何処か、心地の良い場所に行きたい。胸が躍るような冒険が用意されていて、温かく迎え入れてくれる場所に。

 私も、少なからず「帰りたい」という気持ちを持っていたので、この作品を読んだとき、ショックを受けた。私は「帰れない」側の人間だ、と気付いてしまったから。

 でも、というか、だからこそ、というか。私は十二国記の世界に惹かれるのだと思う。体はこの世にありながら、本は夢のような世界を魅せてくれる。それは時には残酷で、幸せは約束されていないし、多くの人が貧困の犠牲になっている。それでもやはり魅力的で、「行きたい」と思える場所だ。

 そんな世界に浸った後、「生きたい」と思う。私も頑張らなければ。陽子のように、逃げないで努力をしなければ。そう思い、物語は私の心に根付いていく。

 十二国記が広い世代に受け入れられている理由の一つは、ここにもある。世界観の細部がいかに複雑だろうと、話自体の「核」は常に明快で、多くの人の心に響くのだ。

 十二国記は、「生きる」こと、「立ち向かう」ことに力を与えてくれる作品だ。これは、今の人々が求めている希望でもある。十二国記を読めば、つらいことの数々に埋もれた「生」の本来の強い輝きを、思い出させてくれるのだ。

 そしてそれは、人々の心に「沁みて」いき、それぞれの人生と溶け合っていく。十二国記の物語には、そんな後味がある。

 

おわりに

 ファンタジーと聞けば、厭世的だと思う人間も少なからずいるだろう。確かにファンタジーを読んでいる時、人は必ずこう思うだろう。

 自分も、この世界の一員であれば良かったのに、と。

 どうして自分は、こんな退屈な世界に閉じこめられているのだろう。冒険がしたい、玉座を治めたい、格好良い人たちに囲まれたい。その願望を満たしてくれるのも、もちろん、ファンタジーの醍醐味の一つではある。

 だけど本当に優れた作品は、そこで終わらない。「帰りたい」という欲求を満たしただけの作品は、時と共に忘れられていく。事故に遭って異世界転生したい、かわいい妖精に囲まれたい、という気持ちを否定するつもりはないが、所詮その欲望を越えられない作品に強い力は多分ない。

 厭世(えんせい)的な気持ちや願望、心の何処かに根付いた郷愁を超越して、この世界に紐付き、はっとするほど美しい、珠のような光を魅せてくれる。そういう作品は少ない。だからこそ十二国記は、ファンタジーの巨塔の一つになっているのだと思う。

 

 断っておきたいのは、「忘れられない作品」というのは万人に共通するものではないということだ。

 上橋菜穂子の言葉だったか、彼女が引用した言葉だったか、詳しい出典は忘れてしまったが、「物語ること、生きること」の講演で聞いた印象深い言葉がある。

「優れた作品というのは、一部の熱狂的なファンを生み、それ以外の人間にとっては、何とも感じられないものである」

 散々絶賛しておいて何だが、もしあなたが十二国記に私ほど感動することが出来なくても、感受性を疑う必要はない。あなたには、あなたに合った素晴らしい作品がきっとある。そんな小説と出会えることを、私は切に願ってやまない。

 まだ読んでいないあなたには、その一冊が十二国記である可能性に賭けて、是非一度、手に取って欲しいと思う。

 

(新潮社公式HP)

https://www.shinchosha.co.jp/12kokuki/

 

おまけに

 前章で、十二国記の紹介は終了した。だが、話しているうちに何だか興が乗ってきてしまったので、最後に、作家志望の端くれたる私の目標を話したい。

 私は、小野不由美さん、上橋菜穂子さんの二人を敬愛している。正直、『鹿の王』を読むまでは、「いつかこの二人を越えるんだ」という僭越な野望に身を焦がしていたこともある。だけど、「無理だ」と思った。越えるなんて身の程知らずだったし、この二人と同じ道を歩いていたのでは、追いつくことすら出来ない。それに二人の素晴らしい業績を軽んじるのは嫌だったので、そう思うのはやめることにした。

 でも、私は違うアプローチの方法で、ファンタジーを描いていきたいと思った。「二人みたいなファンタジーが書きたい」から、「二人には書けないようなファンタジーを書きたい」に変わったのだ。私がやりたいのは、二人を越えることではない。日本のファンタジー界を揺るがすような、異色のファンタジーを生み出すことだ。

 小野不由美さんも、今までになかったファンタジーを書くことで、日本のファンタジー界に衝撃を与えた。今、これだけファンタジー小説がひしめき合っている理由の一つに、十二国記のような優れた小説の影響があるのは間違いがないだろう。私は、そういう礎になるようなファンタジーが書きたい。

 

 今ファンタジー界はレッドオーシャンで、今更影響を与えるのは難しいかもしれないけれど、意外とそうでもない。多くは似通った世界観で、いわば「同じ大陸」の中にいる。私はその中で、全く新しい、ファンタジーの大陸を切り拓きたいのだ。

 私の試みが成功するかどうかの判断は私には下せないので、こんなことを語ったところで所詮大言壮語である。でもいつか、そんな小説を世に届けられたらと思う。私が感じたような深い感動を、新鮮な驚きを与え、心を揺さぶりたい。劇的な変化を呼び起こせなかったとしても、何かの折に、ふと思い出してもらえるような小説を。

 

 今の私は、私が敬愛してやまない作家の方々に到底及ばないし、これから努力したところで、肩を並べられる保障などない。

 そんな私でも小説を書きたいと思うのは、描きたい世界があるからだ。彼らのような、素晴らしい目標と出会うことが出来たからだ。

歴史の中では、「英雄は次の英雄を生む」――つまり、昔の英雄が新しい英雄の目標になっていくのだが、私もまた、彼らのような「英雄」の一人になりたい。

 それが私の夢で、生き甲斐なのだ。