伝わらない言葉に意味はないのか

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言語化しなさい」とよく言われる。就活の自己分析で、ゼミのプレゼンで、仕事のPDCAサイクルの中で。

一方、「語彙力がない」ともよく聞く。美しい景色を見た時に、映画を観た後に、面白かった出来事を話す時に。「伝えたいし伝えなきゃいけないんだけど、伝える手段がない」と思っている人はたくさんいる。

確かに、語彙が少ないと不自由だ。使い古された表現だと新鮮味が足りないし、使い回しのきく言葉だと、振れ幅の大きさ故に正確さに欠ける。特に「すごい」と「ヤバい」は、あまりにも多くのものを託されすぎである。これほどたくさんの荷物を背負って、よくもまあ肩が壊れないものだ。まあ昔の人々とて、「をかし」に感動のほとんどを閉じ込めていたのだから、これは現代特有の現象とも一概には言えない。だがこうした、プラスの意味とマイナスの意味を併せ持つ単語に助けられる一方、細やかな表現が出来ないから「語彙力がない」と人は言う。

だが私は、「語彙力がない」と言う文章の「語彙」とは、実は言葉の数のことではないと思っている。例えば、山盛りのパンケーキを見た時、「マジヤバい!すごい!」とはしゃいでいる人は、果たしてこうなりたいのだろうか?

「アルプスを彷彿(ほうふつ)とさせるホイップクリーム(いただき)からは、イチゴジャムが、さながら清流からかけ下った細い滝のような趣で流れている。土台として、羅針盤(らしんばん)のように(まど)かな形をしたホットケーキが三段積みあがる。この、稚児(ちご)の頬のような柔らかさは、私が積年得たいと懊悩(おうのう)してきたもの…。口に含むと、馥郁(ふくいく)とした芳香が鼻腔を突き抜け、舌の上はまるで中世の舞踏会、沸き上がる感動は燎原(りょうげん)の火」

いや、違う。いくらかふざけたことを差し引いても、これは彼らの求めているものではない。というか、パンケーキを食べて「燎原の火」とか言い出す奴とは関わらない方が良い。多分戦乱を巻き起こす。

でも、「語彙がある」というのが、単純に「多くの言葉を知っている」という意味なのだとしたら、これはあながち間違いではない。「悩む」は「懊悩する」に、「良いかおり」は「馥郁とした芳香」に、「めっちゃ美味しかった!」は「感動が燎原の火のように広がった」と言い換えれば良い。そしてこういう語彙を習得したいなら、漢字検定を勉強するのが早い。漢検漢字辞典じゃ足りない、大漢和辞典でも買いなさい。わーお、補巻をいれて全13冊ある日本最大の漢字辞典の登場だ! 熟語の用例は古典籍なので教養も身に付くぞ!

 

でも、残念ながらそうはならないのである。それは、皆が難しい言葉を覚えたいとは思っておらず、平易な言葉の中で、共感を呼び起こす表現を作りたいと考えているからだ。要は、言葉同士の組み合わせが上手く出来ないと言っている。

「もう卒業式だーと思うと超寂しくて、この体育館でよく練習したなとか、毎日のこととか色々思い出して、あー悲しーと思ったらすごく感情昂って、思わずゲロゲロに泣いちゃった」

「式典の最中、もう卒業なんだなあって、この体育館でボールを片付けていた毎日を思い出したの。見ると、ぴったり仕舞っている倉庫は、式典用の布できっちり覆われていて、ああ、もう私がこの体育館のボールを見ることはないんだなあ……と思うと、思わず、泣いちゃった」

模範解答ではないかもしれないが、先程よりは求めているものに近付いた筈だ。別にこの文章は特段語彙が多いわけではないが、前者より後者の方が伝わりやすかったのではないだろうか。話し手の感じている「悲しさ」が、聞き手の中にも僅かに呼び起こされる。きっと、前者の聞き手と後者の聞き手は、それぞれ異なる表情を浮かべている筈だ。

こういう風に、分かりやすく伝えたいけれど表現が思い付かない、と人は嘆く。一説によると、その嘆きの涙が集まって多摩川になったのだと言われている。

 

言葉は伝達の手段だとすれば、伝わらない言葉に意味などない。伝わらなければだめだ、と皆は思う。だけどつい、汎用性のある便利な言葉に頼る。だが、「すごい」というのは、話し手の伝えたい物事の助っ人になってはくれても、会話において「すごい」効果を生むヒーローになるのは難しい。

「すごい」だけに限らない。伝えたくて、自分の中の引き出しを漁って出てきた言葉たちは、何かが物足りない気がする。引き出しを漁っても出てこないから、持っていないのだ、と思う。人に何かを相談するときは特に、自分でも整理が付けられていないものを言葉にしていかなければならないから辛い。友人の反応に対して、「違う違う!私はそうは思ってはいないのだけど……」と思わず首を振りたくなった経験があるのは、どうやら私だけではないようだ。

 

だけど私は、名付けて「言語化至上主義」という勢力に賛同は出来ない。私は、それが実体にせよ虚体にせよ、モノの核は言語化出来ないと思っているし、伝わらないのもまた言葉であると思っているからだ。

読者の中の不良は、きっとこう言う筈だ。

おいおい、筆で食うことを志している人間が何言っている?お前はボールをゴミ箱に蹴り入れたサッカー選手か? そのくるくるパーマをウンチリーゼントにしてやろうか? と。

ウンチリーゼントというのが何かというのは措いておき、私が言葉を最上のものだと考えていないのは確かだ。私は言葉が好きだし、その可能性や奥深さに疑問を呈するつもりはないけれども、結局本質的に、言葉はこの世界に追い付けないだろうとも思っている。そこに諦めはない。ただ、そういうものなのだろうな、と一人で確信しているだけだ。

 

氷山の一角という表現は、手垢が付きすぎて好みではない。広葉樹、くらいにしておこうか。初めに種があり、根を張って若葉が生え、枝を伸ばして若木になり、秋になると、ようやく葉を落とす広葉樹だ。言葉というのは、この落ちた葉にも似ている。種であるうち、若木であるうちは、存在はしているが伝えることはできない。葉は、自然に落ちてくるまで、中で眠る。その人が、感じたことを山のように積み重ねて木を育て、ようやく意識の層にたどり着き、さらに一定のラインを越えて、ようやく人はその感触を言葉に出来るのだと思う。特に、思想や感情は、こうして出すのに時間が掛かる。

だが、ようやく落葉したからといって、その葉を手に取った人が幹の全てを想像するのも無理な話だ。人というのは、生まれつき嵌ったコンタクトを外すことが出来ないので、見えるものは歪む。だから一層、苦労して伝えた方からすれば、「そうじゃない!」と思う。

一方、説明が得意な人は確かにいる。自分の感情に相手の共感を誘える人、自分の思考に理由を持たせられる人、分かりやすく丁寧な言葉遣いが出来る人。彼らは、落ちた葉から、限りなく正確に自分の意図を表現できる人種だ。私は下手なので、彼らが純粋に羨ましい。こういう人の一定数は、多分この記事を読んで「一体何を言っているんだ?」と思っていることだろう。上手くやれば伝えることは出来る。幹の全容を想像させれば良いんだろう? そのためのメソッドはこの本に書いてあってベストセラーにもランクインしているから読んでよ、といった具合に。

 

でもそういった、小見出したくさんありがち、大事なこと太字にしがち、表紙がソフトカバーがちな本をいくら読んでも、私のの確信が変わることはないだろう。

 

言語学を学んで、面白い話を知った。その中に、サピア・ウォーフ仮説というものがある。一行でまとめると、母語が世界の見え方を決定する、といった考え方だ。分かりやすい例で言えば、日本語の雨とアラビア語ラクダだろうか。日本語には雨を区別する表現がたくさんあり、まあそれは雨が多い土壌で暮らしているからなのだが、そうして雨を区別し表現する手段が豊富だと、「あ、これは霧雨」「これは豪雨」とか、同じ「雨」を言葉によって別々に切り分けられるので、それだけ豊かに雨を捉えられるわけだ。だから、同じ「雨」でも、アラブの人たちとは捉え方が違う。一方アラビア語におけるラクダも、「雨」と同じく表現の手段が多様なので、彼らはラクダをより細やかにまなざせるということになる。

私はこの話を聞いたとき、ショックを受けた。それでは、感情を表す言葉が存在しない時、その感情は言葉に写し取れないのだろうか? 昔の人が与えた言語の枠に収まらないものは、似た形の枠に押し込めるしかなく、そうして何かは少しずつ歪んで、はみ出たものは消えてしまうのではないだろうか?

 

私は原稿用紙の前で、よく唸っている。どうしてこう、「苦しい」とか「寂しい」ということを表すのに、「苦しい」とか「寂しい」しか言葉がないのだろうか。「苦しい」じゃ足りないのだ。「悲しい」も、汎用性が高すぎてダメだ。「胸が痛い」とか、「心臓を鷲掴み」も何か違う。あと、心臓、早鐘打ちすぎ。前世はドラムでもやってたのか? そういえば神経科学の本に、神経の興奮は今抱いている感情を増幅させる効果しかなくて、幸せとか緊張とか動揺とか、ベースになる土台の振れ幅を大きくするだけと書いてあった。だから、どんなシーンでも心臓は早鐘打ちがちなんだ。ところで先程から一文字も進んでいない。とかそんな感じである。

要は、「苦しい」「悲しい」だけでは、「(うろ)」が表現しきれないのだ。これは負の感情に限らず、ポジティブな表現に関してもいえる。

・好きな人から返信があった。

・大学に合格した。

・久しぶりに会った恩師から成長を褒められた。

・好きな漫画の最新刊が発売された。

これらはどれも「嬉しい」だし、それを疑ったことなどなかった。でも、その時思ったのだ。

 

「嬉しい」に閉じ込められているうちは気付かないだけで、もしかしたらこれら全部、微妙に違う種類の感情なのかもしれない、と。

ただ押し込める箱が、「嬉しい」の一つしかないだけで。

 

もちろん形容詞の惑星から離れてみれば、この差分も表現できなくはないと思う。それこそ冒頭の「組み合わせ」で、何とかなる領域もある。

だけど、それだけではどうしても埋らない核は存在する。というか、「伝える」ということが、「同じ感情や情景を喚起させる」ということだと定義すれば、それだけでことは簡単に破綻する。哲学の領域に足を踏み入れて、「同じとは何か?」「それを確かめる方法は存在するのか?」と議論しあわなければならないからだ。「本」という言葉1つとっても、私の想起する本とあなたの想起する本は微妙に異なるかもしれず、ましてやそれが抽象的な物事だとしたら、同一かどうかなんて確かめようがないではないか。

「言葉というのは果たして通じているのか?」という哲学的な問いかけがしたい訳ではない。ただこの世には、伝わらない言葉や、言葉にならないモノも存在することを、私は知ってもらいたいのだ。

掴めそうで、でも靄のように消えてしまう淡い何かや、言葉の枠に押し込めると、形を変えてしまうモノはある。言葉の能力を高めたら、それらの全てを捕まえられるようになるかというと、決してそんなことはないと思う。

 

では、もう一度問う。

言葉は伝達の手段なのか。

 

それだけではない、と私は思う。

 

まとまっていない、ぐちゃぐちゃのまま書き散らした言葉もあれば、伝わることを諦めて、宙を漂ってしまう言葉もある。ぐるぐると廻っているだけで、いつの間にか何処かに行ってしまうことも。

言葉は、激情を溶かした河ではないのだ。言葉は水の形をしていないし、激情は必ずしも水溶性ではない。ごろごろと歪なモノたちは、届けられないまま消えてしまうこともあるし、いつの間にか何処かに忘れられてしまうこともある。

そんな曖昧なモノが世の中のほとんどを満たしていて、言葉にして自分の手のひらに扱えることの方が少ない。そんな中で、あらゆることを「言語化」出来ると思い込むのは不幸なことだ。「伝えられる」モノなんて、この世の何割かに過ぎないのに。

 

でも、そんな中で、私は筆を取りたい。

「伝える」ためだけではない。

 

読者の中の、何かしらのモノを動かしたいから、筆を取りたいのだ。

 

事象の枠組みを伝えたいなら、それは新聞で構わない。思想の真ん中を伝えたいなら、それは論文で構わない。私が書きたいのは、物語だ。

自分が伝えたいことが伝わらなくても構わない。私の小説を読んだ人の中の、何かが動けばそれで良い。それが私の意図したことでなくても、その何かの呼び水になれれば、私の小説は小説になれる。

 

だから、というのは強引かもしれないが。自分の思いが伝わらない感じがしても、心配しないでほしい。言葉を組み合わせても何かが逃げてしまう感覚を、自分の力不足のせいにしないで欲しい。

もしかしたらそれは、誰も見付けてこなかった、新しい何かである可能性があるのだから。