誕生日サプライズが社会に落とす影

2018年以降、文壇での存在感は薄まる一方である私だが、本日、23歳になった。早すぎる。時間って奴は、ブレーキが壊れた暴走車なのか? たまには信号を見て止まって欲しい。

 

ところで誕生日といえば、サプライズというのが流行っている。お店を予約してくれた友人が、名前の入ったケーキを注文してくれていたり、友人の家に遊びに行ったらクラッカーを打ち鳴らされたり。さすがに私のイメージは古典的かもしれないが、まあ大きくはかけ離れていない(はず)

 

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Happy Birthday

私が高校の時は、サプライズという文化は今ほど市民権を得てはいなかったと思うのだが、私の同級生は誕生日の人にホースで水をぶっかけたり、ホールケーキを顔にぶつけたりしていた。その後はホームルームで「食べ物が勿体ない」という話をされた。此処は幼稚園か。

 

まあそういった感じで、陽キャの人ほど、何らかの刺激的な方法で加齢を実感すると思うのだが、こういうサプライズが「文化」になることについて、どう思うだろうか?私は、社会通念がサプライズを「当たり前」に押し上げていくのに、困惑を感じている。

 

私の話になるが、去年、友人から「お誕生日お祝いするよ!」とご飯に誘われたことがある。普通に食事を楽しんでいたのだが、会話の最中、友人がハッと言ったのだ。

「あ、サプライズとかは特にないからね!」

私は、サプライズが存在する文化圏にいなかったので、誕生日を祝うために会う=サプライズがある、という思考がなくて、わざわざそんな断りを入れられたことにビックリした。誘ってくれただけで嬉しいのに、と思ったが、そう言ったところで、「そっか!サプライズは用意してないけど、誘っただけで光琴はハッピーなんだね!ああ、この世は愛と祝福に満ちている!」とはならないし、言った方は、相手に喜びのハードルを下げさせてしまったことを申し訳なく思ってしまうだろう。そんな連鎖がそこかしこで起こっていくうちに、次第に、サプライズを「しない」という選択肢の方が狭められていく。社会の嫌なピタゴラスイッチを見せられている気分だ。

 

この世には、「予定されたありがとう」が存在する。非言語領域で何らかの行為を求め、相手がその通りに振舞ったら発せられるお礼である。例えば、電車の中、一つだけ空いてる席の前で、老人たちが聞こえよがしにする「あんたが座りなよ」「いやいやあんたが」っていう会話など。あれこそ、隣の人間に譲ってもらうことをやんわり強要していやしないか。譲れば、一応「ありがとう」とは言われるが、それは所詮予定調和のお礼である。「譲ってもらうつもりなんて一ミリもなかった」という無垢無垢(むくむく)の老人が、例外的にいないとは言わないが。

 

ともかく、サプライズというのは本来、「予定外のありがとう」を獲得するための行為のはずなのに、サプライズという文化が染み渡ると、「誕生日を祝ってくれるということは、即ち何かあるのだろう」という思考が自然に醸成されて、サプライズ後の「ありがとう」の質が変容してしまうのだ。そうなると、サプライズの後の「ありがとう」は、お年玉もらった子供とか、重たい荷物をヨロヨロ持っている女子とか、道を訪ね終わった後のstrangerとかの「ありがとう」と同じになる。

 

それでも、礼を言えるだけまだマシだ。「何かされるかもしれない」という期待を持ってしまうと、本当に何にもない時につらい。このサプライズの文化は、最早数少なくなってしまった純粋な驚きと引き換えに、不必要な悲しみというリスクを背負わせる。そして気の使えない奴は、無自覚に彼らを悲しみに突き落としてしまう。

 

だからといって、「サプライズをなくせ」なんて言うつもりはない。困ったものである、と思うだけだ。

 

サプライズの文化は、きっとこれからも肯定されていくだろう。これは、喜びを伴う行為の宿命とも言えるかもしれない。善意を下敷きにした行為を否定する人はいない。否定するのは、自分がその享受者になれない者だけである。

また、この文化が消えない背景として、否定する理由が錦の御旗にはなれないこともあると思う。

この世には、「正当化されない期待」が存在する。「合格しますように!」「病気が治りますように!」は大手をふって歩ける"期待"だが、「誕生日プレゼントに何か欲しい!」という"期待"は肩身が狭い。恐らく能動的な期待は肯定的に見られるが、受動的な期待が嫌われるのだ。「宝くじ当たると良いな」といった天から降る系を除けば、受動的な期待にははっきりとした対象がいて、その相手に具体的な行為を求めているのだから。

誕生日サプライズが引き起こす不幸は、この受動的な期待が起因している。だから、誕生日サプライズを否定する理由に言及すると、人が無意識に恥ずかしいと思っている領域に抵触してしまうことになる。だから、誕生日前後の「何かしてくれるかも」という期待は、世俗的な背景から自然に生まれてしまうものだけれども、日の目を見ることはない。胸に抱いていることを自覚することすら許されない感情なのだ。

 

こうして誕生日サプライズは、善意を下敷きにしている故に肯定され続け、ますます増長していく。即ちこの文化には、不毛な結末しか用意されていない。善意から始まった現象が何かを歪ませていくことは割りとあるが、これもまたその一例かもしれない。

 

皆さんも、誕生日の際はくれぐれも気を付けるように。ちなみに私の誕生日は、何もないままもうじき終わります。

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本当に今日は何もなかったので、何年か前のケーキの写真を探していたら日付が変わりました。